コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
僕が向かった先は、夢香の代理人になった弁護士の事務所。目的地に向かう途中、電車の中でスマホを使って予習した。
僕のうちに届いた受任通知書の差出人はわしもと法律事務所所属の弁護士二人の連名だった。まず、わしもと法律事務所のウェブサイトを閲覧した。トップページに二人の顔写真つきでこんな記載があり、二人が夫婦であることが分かった。
当事務所は、司法研修所でクラスメートだった2人が、弁護士になると同時に夫婦になって3年目に、2人で設立し、運営してきました。
弁護士2人、事務員1人の小さな事務所ですが、だからこそできる、きめ細かいサービスを心がけ、1件1件の仕事に丁寧に取り組んでいます。
ご依頼いただいた事案は、原則として、2人の弁護士が共同で担当させていただいています。
僕は鷲本夫妻から、夢香本人、また夢香の関係者への接触を禁止されている。話し合いもできず、離婚と婚姻費用を請求されている。
鷲本憲和・友子夫妻はともに47歳、しかも夫婦で弁護士。仲よさそうで素直にうらやましい。自分たちは仲良し夫婦なのに、他人の夫婦仲は簡単に壊そうとするんだなと正直恨みがましい気持ちにもなる。
わしもと法律事務所は横浜市内の最寄り駅から徒歩十分。五階建ての雑居ビルの最上階。分かりやすい場所にあったから、すぐに見つけることができた。仲良し弁護士夫婦はそこにいる。
エレベーターに乗って事務所の前まで行ってみた。
〈夢香と娘たちに会わせてほしい!〉
〈DVなんてしてない!〉
〈僕の預金を全額引き出して、さらにまた婚費請求ってどういうこと?〉
〈僕の親からむしり取った示談金の三百万円を返せ!〉
言いたいことは山ほどあるが、ここで騒ぎを起こせばまた警察を呼ばれるだけだ。我慢するしかない。この我慢が報われる日が来るかどうかは分からないけど――
事務所の前で拳を握って立ちすくんでいると、ちょうど一人の男が事務所から出てきた。顔を見れば鷲本憲和弁護士ではない。もっと貧相で疲れた顔をしていて、なんというか不幸なオーラに満ちている。
目が合うと、向こうから話しかけてきた。
「もしかしてお仲間ですか?」
「仲間?」
「失礼。妻に子どもを誘拐された仲間かと思ったもので」
誘拐とは物騒な言葉だ。でもある意味その通りだ。子どもは母親の持ち物じゃないのに、ある日突然子どもが僕の手の届かない場所に連れ去られた。父親の親権が母親の親権に劣るとは聞いたことがない。僕は不当に父親としての権利を奪われた。
「確かに僕も妻に子どもを連れ去られました。よく分かりましたね」
「分かりますよ。あなたは貧相で疲れた顔をしていて、なんというか不幸なオーラに満ちている。あなたに限らず同じ目に遭った者はみんなそうなるんですけどね」
帰ったら自分の容姿を鏡でチェックしなければならないようだ。僕は高校教師。どんなに困難な状況でも、生徒に情けない姿を見せるわけにはいかない。
「見た感じ、事務所に用があってここまで来たわけではなさそうですね。よかったら同じ立場の者同士として話しませんか」
もちろん了承した。これからどうすればいいか皆目見当もつかなかったが、同じ立場の人と話すことで見えてくることもあるかもしれない。
どこかのカフェにでも入るのかと思ったら、息子を見てほしいというから、彼の家で話をすることになった。息子を見てほしいと言っても、連れ去られたわけだから、アルバムの写真か何かだろう。赤の他人の子どもの写真を見せられてもなと思ったけど、どうしても見てほしいそうだから言われた通りにすることにした。
彼の家は一軒家。見たところ新築に近い。リビングもお洒落できれい。間取りから家具まで元奥さんがこだわって決めたそうだ。一人暮らしのはずだが、いつでもお子さんを迎えられるようにと考えてだろう、ゴミ一つ落ちていないし、床もぴかぴかだ。
「注文住宅ですか」
「いや建売住宅。買って一年で一人ぼっちになってしまったよ。住宅ローンがまだ二十五年も残ってるのに。こうなると分かってれば、家なんて絶対に買わなかった」
住宅自体は狭小地に三階建てを細長く建てた、いわゆるペンシルハウス。でも最寄り駅まで徒歩圏内で、しかも横浜市街へのアクセスがよいので、建売住宅とはいえ購入価格が四千万円を下回ることはないだろう。
ダイニングからワインとチーズを持ってきてくれた。ようやく彼は身の上を語り始めた。
彼の名は只野佐礼央。年は僕より二歳年上の42歳。仕事はOA機器のメンテナンス。毎日一日中顧客企業を回っているそうだ。奥さんは詩多子、現在40歳。連れ去られた一人息子は貴楽、現在10歳。家族写真を見せられたが、そこに写る三人とも五年前の姿。
連れ去りは五年前。原因は奥さんの不倫。奥さんは鷲本弁護士の助言により、不倫発覚直後に当時五歳の息子を連れ去った。自分と間男に慰謝料を請求したら二度と子どもに会わせないと脅して制裁もまったくなし。佐礼央は離婚せずそれからずっと婚費を払い続けているが、結局五年間一度も子どもに会えていない。
佐礼央は家庭裁判所に面会交流調停を申し立てた。奥さんは佐礼央のDVをでっち上げ、子どもが怖がってるから面会させたくないと抵抗、調停は不調に終わり、裁判官の審判により月に一度二時間の面会を認められたが、奥さんは子どもが会いたくないと言ってるからと相変わらず面会を拒んでいる。
「結局ね、連れ去った方の勝ちなんだよ。子どもの連れ去りは罪に問われないのに取り返しに行けば逮捕。子どもを連れ去られた父親の中には母親を誘拐罪で告訴した者もいるけど、警察はなかなか動いてくれないし、警察が動いてくれても今度は検察が起訴してくれない。僕の妻は今、間男と同棲している。おかしいと思わないか? 実の父親はもう五年も息子に会えないのに、元妻は僕から婚費を受け取りながらほかの男を僕の息子と住まわせてるのだから」
「理不尽ですね」
本当はそんな他人事のような返事をしてる場合ではないのだ。佐礼央の現在は僕の未来なのだから。でもどうしていいか分からない。
「相手の男は結婚してる女に手を出すくらいだから倫理観なんてもともとない。僕の息子に暴力を振るわないか心配だ。でも僕は弁護士から妻側への接触を禁じられてるから何もできない」
「母親の親権の方が父親の親権より強いということですか?」
「そういうわけじゃない。夫の家を追い出された奥さんが子どもに会えなくなるケースも多い。連れ去りだろうが、追い出しだろうが、要は子どもを手元に置いた同居親の勝ちなんだ。単独親権制度の弊害だよね。世界じゃ共同親権が主流で、こんな悲惨な親子断絶は考えられないのに」
「共同親権なら離婚しても別居親が子の養育に参加できるわけですね」
「そうだよ。ほんと言うとね、僕は子どもと面会したいんじゃない。父親として子育てに携わりたいんだ。単独親権制度の下でそれは叶わないから、面会を求めてるだけさ。これを言うとヘタレだと思われるんだろうけど、実は僕は妻の不倫を許して再構築したいんだ。貴楽は文字通り僕にとって宝なんだ。貴楽と暮らせるなら、僕は喜んでちっぽけなプライドを捨てて、ほかの男におもちゃにされた妻を今まで以上に愛してみせる自信がある。だからいまだに離婚調停は申し立てていない。でもあの弁護士、僕らが復縁すると儲からないから、見ていて滑稽なくらい必死に僕らを仲違いさせようとするんだ」
よく考えたら弁護士は基本的に何かトラブルが起きたから依頼するもの。トラブルのない平和な世界になったら、弁護士など存在理由すらなくなるだろう。
佐礼央は住宅ローンで月々十五万円払ってる上に、婚費も月に二十万円取られている。婚費の振込先口座は弁護士名義の口座を指定されている。弁護士は婚費からピンハネして利益を得ているわけだ。
佐礼央は口座に振り込まず今日のように弁護士の事務所に直接婚費を持参することにしている。息子に会いたいという気持ちを伝えるために。ただそれを弁護士が奥さんに伝えているかどうかは定かではない。
「鷲本弁護士は家庭問題に強いと評判だけど、実際はうまくいってない夫婦を食い物にして荒稼ぎしてるだけ。そういうのを離婚ビジネスというらしいね。鷲本夫妻は離婚ビジネスでビルを建てたよ。あの法律事務所はテナントじゃないんだ。実は鷲本夫妻があの雑居ビルのオーナーさ。あのビルは僕らの血と涙で造られたものとも言えるね」
夢香はそんな悪徳弁護士だと知った上で、彼らを代理人に選んだのだろうか? 夢香は鷲本弁護士を通して僕に離婚を要求している。別居親の僕に親権が渡ることはない、という説明は鷲本弁護士から当然あっただろう。夢香の気持ちが戻らずあくまで僕との離婚を望むなら、僕は娘たちの親権を求めたいが、佐礼央の話を聞く限り叶わぬ夢としか思えない。
絶望的な気分になった僕に、佐礼央が何かを持ってきて見せてくれた。
「息子からの手紙だよ。会えなくなってから五十通はもらったかな」
「手紙を五十通も? 会えない代わりにこまめに息子さんに手紙を書かせて送ってくれたんですか。奥さん意外と優しいところあるじゃないですか――」
そう言ってしまったことを、手紙をひと目見た瞬間後悔した。
お父さんへ
ぼくは元気です
学校にも休まず行ってます
じゅくに通いたいのでお金を増やしてください
今はまだお父さんと会いたくないですが、
じゅくに行けたら会いたくなる気がします
「もしかしてほかの手紙も……?」
「ああ、全部金の無心。さすがに、息子を僕からお金を引っ張るための道具扱いし続ける妻に愛想が尽きてきたところさ」
この人は強いなと見直した。僕が真希や望愛からこんな手紙をもらったら、悲しみがあふれて発作的に首を吊ってしまうかもしれない。
「最初にこの手紙を見たときは、怒りが限界を超えて窓ガラスを棒で叩き割ってしまった。婚費と住宅ローンでカツカツだってのに、まったく余計な出費をさせられたものだよ」
僕はそれに愛想笑いで応じるしかなかった。
その後、僕らはLINEでお互いを友だち登録した。
「次はぜひ僕のうちに来てください」
「喜んで」
それが僕が佐礼央と交わした最後の会話となった。
数日後の夜、テレビのアナウンサーが暗い口調で暗いニュース原稿を読み上げていた。
今朝、横浜市内のアパートで交際相手の10歳の息子を複数回蹴るなどして死亡させたとして、40歳の男が逮捕されました。
死亡したのは只野貴楽くん。貴楽くんは蹴られた際、転倒して頭を強く打ったとみられています――
すぐにLINEで佐礼央と連絡を取ろうとしたが、なかなか既読がつかない。いても立ってもいられず、タクシーで佐礼央の自宅に向かうと、ちょうど救急車が佐礼央の家から走り去るところだった。
野次馬が大勢いて、
「まだ若かったのに」
などとささやき合っている。
「今運ばれたのは只野さんですか? 生きてるんですか?」
突然話に割り込んできた僕を佐礼央の親類か同僚だと思ったか、親切なおばさんが気の毒そうに教えてくれた。
「首を吊ったのが午前中で、発見されたのが夜になってからだそうだから……」
そのとき見覚えのある顔が視界に入り、僕の意識はすべてそっちに持っていかれた。
鷲本弁護士夫妻だった。なぜ彼らがここに?
「離婚してなかったから、依頼人もこの不動産を相続する資格があるわね。名義人死亡で住宅ローンも消滅。なんとかほかの相続人に相続放棄させて、また高額成功報酬を手に入れましょう」
「ただ事故物件になってしまったから、売るときに買い叩かれてしまうな」
「自殺するならよそですればよかったのに」
怪訝そうな周囲の視線を気にもせず、二人は笑い合っている。こいつらをハイエナと呼ぶなら、ハイエナに失礼だろう。あなたの仇は絶対に取る! 僕は二度と振り返らずに現場から走り去った。