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佐々木は座敷テーブルを前に正座し、眉間に深く皺を寄せていた。畳の香りが漂う部屋は、静寂に包まれ、僅かな床の軋みが響くだけだった。佐々木の手はテーブルの縁を固く握り、視線は一点に注がれ、まるでそこに全ての答えが隠れているかのようだった。菜月はボールペンを握り直した。
その隣では、郷士が背筋を伸ばし、ゆきが膝に置いた手を微かに震わせ、湊が唇を噛みしめて固唾を呑んでいた。三人とも、佐々木の次の動きを見逃すまいと息を潜めていた。一方、多摩さんは畳の上で身を乗り出し、「そ、そこです」と囁き声で言い、握り拳を縦に振って熱を帯びた視線を送っていた。
「う、うん・・・頑張る」
菜月の声は小さくとも、部屋の緊張を切り裂くような鋭さがあった。窓の外では、風に揺れる竹林がさらさらと音を立て、室内の重苦しい空気と対照をなしていた。佐々木の額に一筋の汗が伝い、畳にぽたりと落ちる。その瞬間、ゆきが小さく息を呑み、湊の目が鋭く光った。誰もが次の展開を予感し、時が止まったかのような静寂が部屋を支配していた。
「あー」
佐々木は額に手を当てて天井を見上げ、その他の面々は肩を落とした。
「多摩さん、証人欄は後で書こう」
「そうですね」
緑枠の離婚届出用紙がくしゃくしゃに丸められた状態で畳の上の彼方此方に転がっていた。菜月は右手の中指にペンだこを作りバタンと背中から倒れ込み、多摩さんがそれらを拾い集めるとゴミ箱に捨てた。
「もう、駄目」
まさに今、綾野菜月は人生で初めての離婚届を書いている。薄暗い居間のテーブルに広げられた離婚届用紙は、彼女の震える手の下で悲鳴を上げていた。菜月と賢治の離婚届の証人欄には、多摩さんと孫の佐々木の名前が丁寧に記されていたが、問題は菜月自身の筆跡だった。
緊張のあまり、ボールペンの先が紙を突き破り、小さな穴がぽっかりと開いた。本籍と現住所を逆に書き、二重線と訂正印が乱雑に並び、振り仮名は欄をはみ出して隣の枠まで侵食していた。テーブルの上には、インクの滲んだティッシュと何度も握り潰されたボールペンが転がり、菜月の額には汗が光る。多摩さんは隣で「落ち着いて、ゆっくりでいいんですよ」と穏やかに言うが、声の端に心配が滲む。
佐々木は黙って見守り、時折眉をひそめる。菜月は「こんな大事な書類なのに・・・」と呟き、笑いとも泣きともつかぬ表情でペンを握り直す。外では小雨が窓を叩き、部屋の空気は重く湿っていた。この一枚の紙が、菜月の過去と未来を切り分ける瞬間だったが、その紙はまるで彼女の心の乱れを映すように、悲惨な有様だった。
「菜月、こっちの細いボールペンで書いたら?」
「菜月は不器用だな」
「菜月さん、鉛筆で下書きしたらどうかしら」
ゆき のアドバイスにより鉛筆で下書きをし、ボールペンで書いたまでは良かったが、消しゴムを握った次の瞬間、離婚届出用紙は半分に破れた。
「菜月、頑張って」
「う、うん」
湊は菜月の手を握ると真剣な表情で語り掛けた。
「菜月、もうすぐ賢治さんが来るんだよ?」
「そ、そうね」
「賢治さんから、離婚届のサインを貰うんでしょう!?」
「うん」
湊は、極細のボールペンを手渡した。
「これでもう間違えずに書ける!」
「書ける」
「書くんだよ!」
白紙の離婚届用紙を前に、菜月は唾を呑んだ。
「菜月、この離婚届を、市役所に提出すれば」
「提出すれば!」
「菜月はもう賢治さんの奥さんじゃなくなるんだよ」
「う、うん!」
「そう、もう人妻じゃないんだよ!」
「人妻じゃない!」
「頑張れ菜月!」
「頑張る!」
子どもたちの妙な掛け合いを見ていた郷士は首を傾げた。
「人妻、人妻、人妻で無くなったらなにかあるのか?」
「まぁまぁ、郷士さん、ほほほほ」
「なんなんだ ゆき まで気味の悪い笑い方をして、なんなんだ」
「ほほほほ」
ついに、綾野菜月は9枚目の離婚届用紙を震える手で書き上げた。テーブルの上には、破れたりインクで汚れた8枚の失敗作が散乱し、彼女の奮闘の跡を物語っていた。
座敷のテーブルの上、菜月の顔には疲労と安堵が混じる。
多摩さんは穏やかな笑みを浮かべ、証人欄に丁寧な筆跡で名前と住所を書き込んだ。彼女の動きは落ち着いており、まるでこの瞬間を優しく支えるかのようだった。一方、佐々木は無言でペンを取り、几帳面に自分の名前と住所を記入し、朱肉に印鑑を押し込む。その音が、静まり返った部屋に小さく響いた。二人の印鑑が紙に押されると、菜月は肩の力を抜き、長い溜息をついた。
「やっと…できた」
呟く声は、達成感とどこか寂しげな響きを帯びていた。窓の外では小雨が続き、ガラスに映る水滴が室内の重い空気を映し出す。失敗の山を横目に、菜月は完成した離婚届を手に持ち、複雑な表情で眺めた。この一枚が、賢治との過去を閉じ、未知の未来を開く鍵だった。湊がそっと肩を叩き、佐々木が静かに頷く中、菜月は新たな一歩を踏み出す覚悟を、胸の奥でかためていた。
「賢治さんが失敗した時の事を考えてもう一枚書いたら?」
「そ、そうする」
10枚目の離婚届を書き上げた菜月は安堵の溜め息を吐いた。そして、証人欄の印鑑はスムーズに捺された。