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その時、玄関先で事務の久保が郷士を呼んだ。
「あの、四島さまと賢治さんが会社にいらしていますが!」
「多摩さん、母屋に来るように久保に伝えてくれ。」
「はい、はい、はい」
座敷に緊張が走る。
座敷テーブルの周りに、郷士と佐々木が背筋を伸ばして正座していた。畳の香りが漂う部屋は、静けさに満ち、窓の外の小雨がさらさらと響く。佐々木の脇には、書類がぎっしり詰まったファイルと、開かれたノートパソコンの画面が青白く光り、緊張感を漂わせていた。
その隣では、菜月、湊、ゆきが正座し、それぞれの表情に複雑な思いが滲む。菜月の手元には、ボイスレコーダーが置かれ、赤い録音ランプが点滅し、まるでこの瞬間の重みを刻むようだった。菜月の指は膝の上で小さく震え、離婚届の記憶がまだ生々しく残っている。
湊は唇を固く結び、視線をテーブルに落とし、ゆきは時折、佐々木のファイルに目をやっては不安げに息を吐く。郷士は静かに皆を見守り、穏やかな眼差しで場を落ち着かせていた。テーブルの上には、離婚届の余韻を残す訂正印の朱肉と、散らばったペンが転がり、雑然とした空気を物語る。雨音が一瞬強まり、部屋の空気がさらに重くなった。この集まりが何を意味するのか、誰も口には出さないが、ボイスレコーダーの小さなランプだけが、静かに真実を記録し続けていた。
カコーン
「この度は、重ねがさね、申し訳ございませんでした!」
座敷に小走りで駆け込んだ四島忠信は、足を縺れさせながら身を正すと、これでもかと額を畳に擦り付けて詫びの言葉を並べた。
「申し訳ございません!申し訳ございません!」
賢治は目の周りに醜い青あざを作っていた。余程の折檻を受けたのだろう、整った面立ちは見るも無惨に変わり果てていた。
「申し訳、ありませんでした」
蚊の鳴くような声で不満げに謝罪の言葉を吐いた愚息の姿に慌てた忠信は、その後頭部を思い切り叩くと勢いよく畳へと押さえつけた。
「こ、この馬鹿もんが!」
ゴンと鈍い音が響いた。
カコーン
鹿おどしが空虚な庭に鳴り響いた。
「それでは皆さまお集まりのようですので、始めさせて頂きます」
佐々木は身を乗り出すと、座敷テーブルに賢治の不倫行為の証拠を丁寧に並べ始めた。
「これ、は」
それは、郷士、ゆき 、四島忠信と賢治が初めて目にする物ばかりだった。
「こちらは先日、四島忠信さま宛にお送りさせて頂きました、内容証明郵便の詳細な資料でございます」
「はい」
「みなさま、こちらに、どうぞ」
そこには如月倫子から送り付けられた口紅や手渡された名刺、白檀の匂いが染み付いた賢治のスーツとネクタイが置かれていた。
「品のない匂いね、これは香水ですか?」
「下品だな」
その毒々しさに郷士は顔を歪め、 ゆき は着物の袖で鼻を覆った。
管野アリオ
45
#ロマンスファンタジー
Jasmine
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西原衣都
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瑠璃マリコ
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「多摩さん、悪いが早く片付けてくれ」
「はいはいはい、どこにお片付け致しましょうか」
「捨ててくれ」
「はいはいはい」
賢治の一張羅のスーツはゴミ袋に入れられ、台所のゴミ置き場に捨て置かれた。
「あのスーツやネクタイは賢治さんの持ち物でお間違いないでしょうか」
「…」
「賢治さん、お間違いないでしょうか」
「間違いない」
次に佐々木は黒い口紅のケースを指差した。
「見覚えはございますか」
賢治はそれを手に取るとキャップを開けて中身を確認した。深紅の使用済みの口紅だった。
「見覚えはございますか」
「この口紅は私が倫子に買いました」
「そうですか」
菜月の顔色が変わった。
(賢治さんがプレゼントした口紅)
やはり、自宅マンションに送り付けられた口紅は、如月倫子からの挑戦状だった。
「それでは、こちらをご覧下さいませ」
佐々木は、賢治が利用していたクレジットカードの利用明細書を郷士に渡した。
「なんだこれは」
「父さん、クレジットカードの利用履歴だよ」
郷士の隣ににじり寄った ゆき がその金額を確認した。
「ニューグランドホテル チャージ料金 49,800 円」
「ホテル」
「あぁ、あの高級ホテルね」
そこには、高級ブランドのバッグやアクセサリーを購入した履歴もあった。
「どうぞ、四島さまもご確認下さい」
利用明細書を手渡された忠信は蛍光ピンクのマーカーが引かれた部分を「1、2、3・・・」と数えた。汗が滲んだ眉間に皺が何本も寄った。
「こ、こんなに、賢治!こんな大金をその女に金を使ったのか!」
自身が取り寄せた記憶のないクレジットカード利用明細書を握り締めた賢治が、中腰になって佐々木を睨みつけた。
「佐々木!これは個人情報だろう!違法じゃないのか!訴えてやる!」
「賢治さまも不倫行為で訴えられますが、それでも宜しければ裁判所でお会い致しましょう」
「クソっ!」
佐々木はカレンダーを取り出し、利用明細書に照らし合わせた部分をチェックして掲げて見せた。
「金曜日、金曜日ばかりだ」
「はい、賢治さまは毎週金曜日にこのホテルをご利用になられた様です」
忠信は賢治の後頭部を激しく叩いた。
「この馬鹿もんが!」
その四島忠信と賢治の遣り取りを横目に、複数枚の写真が整然と並べられた。
金曜の晩、賢治と倫子がニューグランドホテルの薄暗い廊下で密会していた。親密な雰囲気を漂わせ、囁き合いながらホテルの一室へと向かう。二人は腕を組み、部屋の扉を開ける瞬間、そのシルエットが仄かな光に浮かんだ。菜月と湊は息を潜め、部屋の扉の隙間からカメラを構えた。フラッシュの光もなく、シャッター音だけが静かに響く。不倫の証拠を捉えたその写真は、冷たくも鮮明に二人の秘密を切り取った。菜月は唇を噛み、湊は無言でデータを確認した。
「これは、いつの間に」
「賢治さまでお間違いようですね」
「誰が撮った!」
自分の愚行が白日の下に晒され、賢治は憤慨の表情を浮かべ、湊を鋭く睨み付けた。握り潰した拳が震え、半ば立ち上がる勢いでテーブルに手をつく。部屋に漂う重苦しい空気の中、菜月は沈黙を保った。湊は冷ややかな視線を返すのみで、動じず証拠の写真を机に置いた。その場にいる者たちが皆、賢治の次の行動を見守る中、部屋の時計の針だけが無情に時を刻んだ。
「賢治!よさんか!」
「湊か、お前か!お前が撮ったんだろう!」
写真の中の、賢治と如月倫子は腕を組み、愉しげな笑顔で廊下を歩いている。
「あら?」
ゆきは震える手で写真を手に取り、食い入るように目を凝らした。撮影日時は先週の金曜日、賢治と倫子の密会を捉えた瞬間だった。ゆきの瞳に疑念が宿り、閃いたとばかりに菜月と湊の顔を交互に見つめた。その晩、菜月と湊は朝帰りをしていたのだ。薄暗い部屋に沈黙が流れ、ゆきの呼吸だけがわずかに聞こえた。菜月は視線を逸らし、湊は硬い表情で床を見つめた。二人の頬はどこか赤らんで見える。写真の裏に記された時刻が、それを証明した。
「あぁ、あなたたち、この夜にホテルに泊まったのね!」
「あっ!」
「母さん!」
郷士は三人の顔を見て首を傾げた。
「なんだ、ホテルに泊まった?誰がだ?」
「あらあらあら、ほほほほ」
「母さん!」
「あらあら、ほほほほ」
ゆき は明後日の方向を見て誤魔化した。一瞬場が和んだ。
「それではこちらをご覧下さい」
けれど佐々木は淡々とパソコンを立ち上げ、画面に映る動画ファイルをクリックした。そこには、賢治が若い女に覆い被さり、情事に耽る姿が映し出されていた。アルファードの車載カメラが捉えた映像は、13:50の時刻を刻む。スーツ姿の賢治が後部座席でスラックスのベルトを外し、女の髪に手を絡める瞬間が無音で流れた。佐々木の目は冷たく、表情一つ変えずマウスを動かした。車内の薄暗い光が二人の影を浮かび上がらせ、動画は無情に真実を暴き立てた。
「賢治さま、これは勤務時間中の行為ですね」
「…!」
郷士は座敷テーブルを叩くと、賢治の顔を青ざめた顔で睨みつけた。
「賢治くん、きみは、なにを!」
そこで、四島忠信は動画に映る女性が自社の制服を着ていることに気付き、画面に釘付けとなった。彼女の襟に輝く社章が、裏切りの証として目に焼き付いた。次の瞬間、忠信の怒りが爆発し、賢治の頬を力強く叩いた。鋭い音が部屋に響き、賢治はよろめきながら顔を押さえた。佐々木は無言でパソコンを閉じ、冷ややかな視線を二人に投げた。部屋の空気は凍りつき、忠信の荒い息遣いだけが響いた。
「こ、こいつは吉田美希じゃないか!」
「お、親父」
「おまえ、未だこいつと続いていたのか!」
「まだ!?」
それは聞き捨てならんと郷士は立ち上がり掛けたが、 ゆき に諫められ、渋々、座り直した。
「四島さん、それはどういう意味ですか!?」
「あ、綾野さん、これには訳があって!」
「どのような訳だ!」
「じ、実はこの女と賢治は恋仲でして」
「はぁ!?」
四島忠信は、自身の秘書が賢治と男女の関係にあることを承知していた。だが、綾野住宅株式会社との取引を優先し、冷徹な計算のもと見合い話を進めた。その際、吉田美希に手切金として100万円を無言で手渡した。忠信の目は感情を押し殺し、封筒を渡す手は微かに震えた。美希は一瞬躊躇したが、金を受け取り、視線を落とした。取引の成功と秘密の清算を天秤にかけ、忠信は自らの選択を貫いた。オフィスの空気は重く、書類の音だけが響いた。
「四島さん、それを知っていてうちの娘に縁談を持って来たのか!」
「い、いや、手切れ金も渡して別れたとばかり、いや、それが」
「でも続いていたんだな!」
郷士はテーブルを拳骨で激しく叩き、賢治を焼き尽くすような視線で睨みつけた。賢治は驚きその場で飛び上がり、ずりずりと後退して壁に背を押し付けた。佐々木が無言でノートパソコンを閉じると、テーブルの上に人差し指大の筒が置かれた。それは湊が菜月に「賢治さんの言葉を録音するんだよ」と囁き渡したボイスレコーダーだった。赤い録音ランプが点滅し、部屋の静寂に不気味な緊張感を添えた。菜月は息を呑み、湊は冷たく微笑んだ。賢治の額に汗が滲み、郷士の怒気が空気を震わせた。
「なんだ、それは」
「ボイスレコーダーです」
「ボイスレコーダー、録音か」
「皆さま、重要な部分ですのでお聞き下さい」
菜月はボイスレコーダーのスイッチが赤く点灯するのを見ると、顔色を失い、唇が震えた。湊は静かにその背中に手を置き、落ち着かせるように肩を押さえた。ボイスレコーダーから流れ出したのは、賢治の怒声と菜月の怯えた声—彼女が耐えたドメスティックバイオレンスの生々しい記録だった。部屋に響く過去の叫び声に、郷士の目が鋭さを増し、賢治は顔を歪めて俯いた。菜月の指はボイスレコーダーを握り潰すほど強く、湊の視線は冷たく賢治を射抜いた。
ガシャーン!ドス!ドス!
皿が割れる甲高い音が響き、家具を蹴り上げる鈍い音が座敷にこだました。菜月は顔色を失い、きつく目を瞑ると、両耳を強く手で塞いだ。彼女の肩は震え、過去の恐怖が蘇るようだった。ゆきと多摩さんはその惨状に息を呑み、凍りついた。部屋の空気は重く、割れた陶器の破片が畳に散らばる中、賢治の荒々しい息遣いが響いた。湊は静かにボイスレコーダーを握り、冷たく事態を見守った。
『やめて賢治さん!』
『うるせぇ!』
ガシャン!
『あっ!』
『なんだその目は!文句があるのか!』
(6月30日録音)震える怒りの感情を押し殺した、湊の声がその日付を読み上げた。
『もうやめて!』
『お前まで馬鹿にするのか!』
ガタンガタン
ガシャーーーン
『馬鹿になんてしてない!』
『湊もお前も、なんだ!おい!なんだその目は!』
(7月2日録音)湊の声には怒りが滲んでいた。
菜月の悲痛な叫び、物が壊れる鋭い音、賢治の怒声と罵詈雑言、嗚咽する涙声がボイスレコーダーから延々と流れ、座敷を凍りつかせた。湊の声が淡々と日付を読み上げるたび、過去の惨劇が鮮明に蘇った。来る日も来る日も、聞くに耐えない音声が刻まれていた。それは明らかにドメスティックバイオレンスとモラルハラスメントの証拠だった。ゆきは顔を覆い、多摩さんは唇を噛んだ。佐々木は無表情で録音を止め、静寂が重く部屋を包んだ。
「な、菜月さん、まさか、あなた、こんな事に」
「うん」
「まさか、そんな」
「うん」
多摩さんは耐えきれず顔を背け、唇を噛んで涙を堪えた。ゆきは菜月の肩を強く抱き、震える手でその頭を優しく撫でながら、声を殺して泣いた。ふと気付くと、菜月の目尻にも涙が溢れ、止めどなく頬を伝い畳に落ちた。彼女の震える肩が、押し殺した嗚咽が、過去の傷を物語っていた。部屋は重い静寂に包まれ、ボイスレコーダーの赤い光だけが冷たく点滅していた。佐々木は無言で、窓の外を見つめた。
(辛かった、でも、もう大丈夫)
涙を流す菜月の冷えた手を、湊の温かい手がそっと包み込んだ。その目は優しく、静かな励ましを湛えていた。窓の外では、激しく降りしきっていた雨が、いつの間にか上がり、薄い陽光が障子の隙間から差し込んだ。菜月の震える指が湊の手を握り返し、かすかな力が宿った。ゆきは涙を拭い、多摩さんが肩を緩めた。部屋に漂う重苦しさは薄れ、微かな希望の光が静かに広がり始めた。