「がああああああああッ!」
チリーの絶叫が部屋の中に響く。
苦悶の絶叫を上げるチリーの身体は、異様な変化を始めていた。
「おい、チリー! しっかりしろ!」
シュエットの声は、最早チリーには届かない。
チリーの身体は、不自然な陥没と隆起を繰り返していた。人間の肉体とは思えない程流動的で、まるで液状に変化したかのようだった。
漏れ出した魔力が、赤い被膜となってチリーの身体を覆い始める。その被膜の上で、いくつもの”目”が開かれた。
「あ、ああ……ッ!」
その光景に、アルドは崩れ落ちる。
アルドはこれを知っている。
もう何度も、うんざりする程目にしてきた光景なのだ。
「失敗……だ……」
エリクサーに適合しなかった人間が辿る末路。
体内に流れ込んだ魔力に身体を蝕まれ、人間性を完全に失う。チリーは今、怪物へ成り果てようとしている。
「嘘でしょ……?」
シアも、この光景に思わずへたり込みそうになる。
エリクサーには失敗のリスクが大いにあった。そんなことはシアも、シュエットもそして当然アルドも理解していたハズだった。
しかし心のどこかで思ってしまっていた。チリーなら大丈夫だと。
賢者の石の力でエリクシアンになり、これまでその力を行使してきたチリーなら、エリクサーに適合するハズだと、どこかでそう思い込んでいた。
「ウ……ワアアアアアアアッ!」
まだ人の形を保ってはいるが、その姿はほとんど怪物になりかけている。
赤黒い被膜が全身を覆い、無数の目がギョロギョロと忙しなく動いていた。
怪物と化したチリーが、獣のように四つ足で立ち上がる。
もうここで殺さなければチャンスはない。そう判断したアルドだったが、それでも既に遅かった。
「アッ……アァァァァァァッ!」
奇声を上げながら、被膜に包まれたチリーの顔に大きな穴が空く。その中から、高密度の魔力が破壊の力として放出される。それはまるで熱線のようだった。
「伏せろッ!」
咄嗟に判断したシュエットに抱えられるようにして、シアとアルドは床に倒れ込む。
そして次の瞬間には、チリーから放出された熱線が壁を破壊していた。
「まずい! 外に出るぞ!」
チリーは目にも止まらぬ速さで跳躍し、破壊した壁から外へと飛び出していった。
「……クソッ!」
その凄惨な光景に、アルドは思わず床を殴りつける。
常駐している医者は間一髪無事だったようだが、それでも最悪の結果と言って差し支えない。
「あんなものは……持っておくべきじゃなかったんだ……!」
研究所(ラボ)を抜け出す時、持ち出してしまった心の弱さ、そしてエリクサーを捨てることの出来なかった弱さ。
己の弱さが作り出してしまった惨劇に、アルドは嗚咽を漏らす。
「……ッ! とにかく追うぞ……! アルドはここで待っていてくれ……!」
そう言い残し、シュエットはシアを連れてチリーを追う。
二人の背中を見つめながら、アルドはただ悔いることしか出来なかった。
***
ノアの呼び出した眷属を前に、ミラル達は成すすべもなかった。
しかしニシルとトレイズに庇われ、ミラルだけでも逃げ出さなければならない……という状況に陥った瞬間、爆音と共にテイテス城の壁の一部が破壊された。
「!?」
城の中から、赤黒い影が高速で飛び出し、ミラル達の元へ向かってくる。
その影の正体を、ミラルは魔力で感知した。
「アレは……!」
そこに現れたのは、赤黒い被膜に包まれ、全身に無数の目を持った偉業の怪物――チリーだった。
悍ましい姿に慣れ果てたチリーが、四つ足でミラルの傍に立つ。
「チリー……なの……?」
その姿は、ヘルテュラシティでサイラスと戦った時に見せた姿とよく似ていた。しかし全身でギョロギョロと蠢く無数の目が、今のチリーを更に怪物然とさせている。
魔力で判別出来なければ、ミラルですらこれがチリーだとは認識出来なかっただろう。
「ウオアアアアアアアアッ!」
言葉にならない絶叫と共に、チリーが顔に空いた穴から熱線を放つ。それは、ノアの眷属に直撃し、その身体を大きくよろめかせた。
その光景を眺めて、ノアは一瞬驚くような表情を見せたが、やがて今まで通りの笑みを浮かべる。
「あーあ、エリクサー飲んじゃったんだ。そこまでする? ミラルちゃんがそんなに好き?」
ノアの言葉に応えず、チリーはノアへ視線を向ける。表情のない今のチリーから感情をうかがうのは難しかったが、それでも睨んでいるように見えた。
「あれが……チリーなのか……?」
チリーの姿に、ニシルは思わず困惑する。
かつて、チリーが赤き破壊神としてゲルビア帝国兵を惨殺した事件のことはニシルも知っている。その時、チリーが人間の姿ではなく赤い怪物の姿を取っていたことも。
だがそれでも、実際に目にすれば驚くのも無理はない。
「チリーってかわいそうだね。誰も守れないし、やってきたこと全部空っぽだし、最後はそんな気持ち悪い怪物に成り下がっちゃうんだもん」
ノアの言葉は明らかに嘲笑の言葉だったが、その声音にわずかに憂いが宿っていた。
「殺してあげる。チリー、終わらせてあげるよ」
甘く優しく、ノアが呟く。
それに応えるように、眷属がどす黒い巨体を震わせた。
「ミ……ラ……ル……」
「え……!?」
その時、ミラルは確かに聞き取った。
怪物になったハズのチリーが、自分の名前を呼んだのを。
「ニゲ……ロ……」
「――――チリーっ!」
そこでミラルは確信した。
チリーはまだ、完全に怪物に変わったわけではないと。
身体は怪物に変化していても、心はまだ残っている。抗っているのかも知れない。
闇雲に暴れていたのではなく、チリーは怪物に成り果ててもなおミラルを守ろうとしていたのだ。
「本気でやっていいよ」
ノアが指示を出すと、眷属が両手を自身の肩幅程に広げる。
すると、急速にその両手の間に高密度の魔力で形成されたエネルギーの塊が生み出された。
アレは、魔力による圧倒的な破壊の力だ。
ノアはその力で、チリーやミラルごと辺り一帯を吹き飛ばすつもりなのだ。
「これなら、逃げたって間に合わないね」
ミラルの足では、あの破壊の力から逃れることは出来ない。
いくら怪物と化したチリーでも、あの一撃を受けきれるとは思えなかった。
だがチリーは、その異形の姿でミラルの前に立ち、両手を広げた。
「オ……レガ……マモ、ル……」
僅かに残った心で、チリーは誓いを果たそうとしていた。
どれだけ失っても、怪物に成り下がろうとも、たった一つそれだけは消えない。しがみついて放さない。
ならもう、信じるしかなかった。
「……信じるわ」
ミラルはそっと、その背に身を委ねる。
「あなたを信じる。何があっても」
――――チリー殿を……信じよ。何があってもじゃ。
サイダは、予言で確かにそう言った。
しかしそんな予言がなくたって、ミラルはチリーを信じると決めていた。
何があっても、どこまでも信じ抜く。
こんな姿になってでも、守ろうとしてくれるチリーを、信じたい。
「……ばいばい」
どこかさみしげに、ノアが呟く。
それと同時に、眷属が巨大な魔力をチリー達目掛けて放出した。
***
チリーが気がつくと、そこは赤黒い色だけが広がる世界だった。
上も下もなく、ただ赤黒い世界が広がっていて自分の立っている位置すらよくわからなかった。
「俺は……」
朦朧とする意識の中で、チリーは順を追って思い出す。
テイテス王国へ来たこと。
ティアナと再会したこと。
ティアナの正体がテオスの使徒、ノア・パラケルススであったこと。
「ッ……!」
そしてノアによって、エリクシアンとしての力を全て奪われてしまったこと。
ミラルを庇って重症を負い……そして――
「ここはどこだ……! 俺はどうなった!?」
アルドから受け取ったプロトエリクサーを飲み干して、その後意識を失った。
エリクサーの力がチリーの身体の中を暴れ回り、制御出来なくなったところまでは覚えている。
「失敗……したのか……?」
チリーは愕然としながら呟く。
成功したのであれば、今頃チリーはエリクシアンとしての力を取り戻し、ノアとの戦いに舞い戻っているハズなのだ。
そうでない以上、現状は失敗を意味する。
「クソッ……!」
這いつくばり、チリーは地面かどうかもわからない足元を殴りつける。
「俺は……なんで……なんで肝心なところでッ……!」
ずっと変わらない。失い続けるばかりだった。
何も守れず、何も手に入れられず、空回りしたまま壊すだけの人生だった。
守ると誓ったものを、いつだって守れない。
誓いも、約束も、使命も、チリーは何一つ守れなかった。
「クソォ……ッ!」
嗚咽混じりに叫んで、チリーは拳を握りしめる。
状況は絶望的だった。
ここがどこなのかもわからず、自分が今どうなっているのかもよくわからない。もしかすると、以前賢者の石の残滓と出会った精神世界のようなものなのかも知れない。
そう気づいてハッとなり、チリーは立ち上がる。
だったらまだ、死んではいないハズだ。
なんとしてもここを抜けて、現実に帰って戦わなければならない。
「諦めてたまるか……ッ!」
諦めて、投げ捨てて、眠ったところで何も変わりはしなかった。
ミラルが目覚めさせてくれて、初めて何かが変わり始めたのだ。
もしこれが”眠り”なら、”目覚め”なければならない。
意識が、心がある内は諦めてはならないのだ。
そう決めて立ち上がる。
しかし次の瞬間、何者かがチリーの足を掴んだ。
「――――ッ!?」
チリーの足を掴んでいたのは、真っ赤に汚れた誰かの腕だった。
それも一本ではない、無数の腕がチリーの両足を掴んでいる。
「放しやがれ! 俺は行かなきゃなンねェンだよ!」
強引に足を動かそうとするが、チリーの足を掴む腕は力強く掴んで決して放さない。このまま握りつぶされてしまいそうだった。
「タスケテ……」
チリーの足元から、呻くような声が聞こえた。
「今のは……?」
「タスケテ……」
下を見ると、そこには無数の赤い顔が浮かび上がっていた。
性別もわからない、輪郭と顔のパーツがそろっていること以外には特徴のない顔が、一様に苦悶の表情を浮かべて呻き声を上げていた。
タスケテ、とひたすら繰り返すその顔達は、全員がチリーを見上げていた。
「こいつらは一体……」
無数の腕が、次第に這い上がってくる。
チリーの腰や腹の辺りまで這い上がってきた腕が、必死にチリーを掴んでいた。
べったりと血を塗りたくったような腕に全身を掴まれて、チリーは身動き出来ずにただもがくことしか出来なかった。
「放せッ! 放せよ! こんなことしてる場合じゃねェンだよッ!」
チリーがどれだけ怒号を飛ばしても、まるで意味はなかった。
無数の腕に引っ張られていく内に、足元がドロリと溶けた。
「!?」
いつの間にか、そこは血のような液体で満たされた沼のようになっていた。
無数の腕に引きずられ、チリーの身体が徐々に沼の中に沈んでいく。
「ふざけんな! こんなところで……!」
必死にもがき続けても、既にチリーの身体は腰まで沈み込んでいた。もう下半身の感覚もない。
成すすべもなく、チリーの身体は沈み込んでいった。
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