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ruruha
第十一話【本名で来い】
地下通路のざわめきは、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
逃げる男、取り押さえる警官、転がった紙袋。
その騒ぎの輪から少し外れた場所で、北松誉とシオンは立ち尽くしていた。
シオンの手の中には、ぐしゃりと握られた紙。
『本名で来い』
たった一行。
なのに、そこに込められた悪意は十分すぎるほど伝わってきた。
誉はその紙と、シオンの横顔を交互に見た。
「……最低ですね」
ようやくそれだけ言うと、シオンは少し遅れて頷いた。
「うん」
「高瀬って人」
「昔から性格悪いけど、今が更新版かも」
「アップデートしなくていい部分ばっかり伸びてるな……」
そう返してみたものの、シオンは笑わなかった。
誉はそこで初めて、これは本気でまずいやつだと思った。
相良がこちらへ来る。
地下通路の奥では、さっき確保された男たちがまだ処理されている最中だった。
「紙には何と」と相良。
シオンは一拍置いてから、くしゃくしゃの紙を差し出した。
相良が内容を見て、表情を変えずに息を吐く。
「……挑発ですね」
「ええ」とシオン。
「分かりやすく」
「“本名”に反応するのは明らかにあなたを揺さぶる意図です。で、心当たりは?」
シオンは少しだけ視線を逸らした。
「……ある」
「場所ですか」
「たぶん」
誉が顔を上げる。
「場所?」
「“本名で来い”って言い方、たぶんただの呼び出しじゃない。昔の俺を知ってるやつしか分かんない場所を指してる」
「それ、どこなんですか」
シオンはすぐには答えなかった。
代わりに、地下通路の人の流れをぼんやり見ている。
その目はもう高瀬を追っていない。
もっと遠い、昔の景色を見ているみたいだった。
「……ライブハウス」
「え?」
「昔、俺らがよく使ってた箱。とっくに潰れてるけど、建物だけ残ってる」
相良の目が細くなる。
「そこに高瀬がいると?」
「いるかは分かんない。でも、呼びつけるならそこ」
「理由は」
「一番、嫌だから」
誉はその答えに、少しだけ言葉を失った。
一番嫌な場所。
だから呼ぶ。
高瀬はそういうことをするのだろう。
「場所、分かるんですか」と相良。
「分かる」
「では今すぐ——」
「だめです」
誉が反射で口を挟んだ。
二人の視線が同時に向く。
「……え」
自分で言ってから、誉も一瞬たじろいだ。
だがもう遅い。
「だめです」と、もう一度言う。
「なんで」とシオン。
「明らかに誘ってるでしょう」
「そうだね」
「“そうだね”で終わらせないでください。罠に決まってる」
「でも行かないと進まない」
「それはそうですけど、今すぐ二人で行くみたいな流れになるのが最悪なんです」
「二人でって、誰が」
「あなたと高瀬です! なんでそこだけ素で返すんですか」
シオンが少しだけ眉を上げた。
それから、ほんのわずかに口元が動く。
「……北松」
「なんですか」
「今、だいぶ怒ってるね」
「怒りますよ。見え見えの挑発に乗る顔してるから!」
相良が口を開く。
「北松さんの言う通りです。場所の特定は必要ですが、単独で乗るのは危険すぎる」
「単独で行くなんて言ってない」とシオン。
「でも行く気だったでしょう」と誉。
「……少しは」
「ほら!」
誉は本気で頭が痛くなってきた。
この男は、こういう時だけほんの一歩だけ早い。
そしてその一歩で自分ごと崖のほうへ行く。
「相良さん、絶対だめです」と誉。
「行くにしても警察込みです」
「当然です」と相良。
「そうじゃないと困ります」
シオンは少しだけ肩をすくめた。
「二対一」
「当たり前です」
「北松、いま頼もしいね」
「褒めてる場合じゃないです」
けれど、そのやり取りでほんの少しだけシオンの表情が緩んだ。
誉はそれを見て、少しだけ安心した。
完全に一人で過去へ引っ張られている感じではなくなったからだ。
その夜、誉たちは再び相良の手配した場所へ移動した。
前夜と同じような、目立たないホテル。
ただし今回は、誉の神経の張りつめ方が少し違った。
高瀬の顔を見た。
シオンの反応も見た。
そして、“本名で来い”という呼び出しを受けた。
もう完全に、シオンの過去が事件の中心にある。
「……つかれた」
部屋に入るなり誉が呟くと、シオンがベッドに倒れ込んだ。
「俺も」
「あなたはあんまり疲れた顔しないんですよ」
「してるよ」
「分かりにくい」
「北松が見るとだいたい分かるじゃん」
「嬉しくないです、その観察力」
ノック。
相良だった。
「少し話せますか」
「どうぞ」と誉。
相良は部屋に入り、椅子代わりに壁際へ立つ。
「今夜のうちに整理したいことがあります」
「はい」
「シオンさん。昔のバンド名は?」
シオンはほんの少しだけ嫌そうな顔をした。
でも、今日はもう逃げきれないと分かっているらしい。
「……LATE NOVA」
「レイト・ノヴァ」と相良が復唱する。
「活動時期は」
「六年くらい前から、四年ちょい前まで」
「終わり方は」
「解散」
「仲違い?」
「ほぼそう」
相良は頷く。
「高瀬晃一さん以外のメンバーは今どこに」
「ボーカルは地元戻って就職。ドラムは連絡取ってない。たぶん東京にいる」
「高瀬さんとはいつ以降、会っていない?」
「ちゃんと顔見たのは、解散のとき以来……だと思ってた」
「先週、非常階段で会っていた」
「……あれは偶然じゃない」
シオンは天井を見たまま言った。
「あいつ、最初から俺を探してた」
「理由は?」
「分かんない」
「本当に?」
相良の問いは静かだが、逃がさない。
誉はベッドの端に座ったまま、二人のやり取りを聞いていた。
相良は刑事として聞いている。
でも自分は、少し違う。
“事件のため”だけじゃなく、シオンという人間を知るために聞いている部分があった。
「……高瀬は」とシオンが言う。
「昔から、人の隠してることを武器にするやつだった」
「本名の件以外にも?」
「うん。ボーカルの実家のこととか、ドラムの借金とか」
「最低だな……」と誉が漏らす。
シオンは少しだけ頷いた。
「でも、売れそうになった時期は、それが妙に“強さ”に見えた」
「見えてしまった?」
「うん。あいつ、何でも知ってるように振る舞うの上手かったから」
誉は唇を結ぶ。
若かった頃のバンド。
売れそうな気配。
その中で、強く見える人間に引っ張られることは、たぶん珍しくない。
「……シオンさん」と相良。
「本名を出された件以外に、あなたが高瀬さんと決定的に決裂した理由は」
部屋が静かになる。
シオンはすぐには答えなかった。
それどころか、ほんの少しだけ呼吸が浅くなったように見えた。
誉はその変化に先に気づいた。
たぶん、触れられたくない場所だ。
「……お金ですか」
誉がぽつりと言うと、シオンがゆっくりこちらを見た。
「……なんで」
「前に言ってたじゃないですか。バンドの頃、変なお金の流れがあったって」
相良も視線を向ける。
シオンは数秒黙って、それからゆっくり頷いた。
「……うん」
「高瀬が持ってきてた?」
「正確には、“高瀬しか知らないルート”があった」
「何の金なんですか」
「当時は聞かなかった」
「今は?」
「今なら、たぶん黒い」
相良が腕を組む。
「機材費や出演料のレベルではない?」
「全然違う。売れてないバンドが急にいいスタジオ使えたり、MVの撮影費がどこからか出たり、そういうの」
誉は目を見開く。
「そんなの、普通におかしいでしょう」
「若いと、おかしいのに気づいても見ないふりすることあるんだよ」
シオンの声は、どこか自嘲気味だった。
「自分の夢に都合いい話なら、なおさら」
誉は何も言えなくなった。
その一言は、妙に痛かった。
若さとか夢とか、そういうものに免罪符はない。
でも、そこへ足を滑らせる気持ちがまったく分からないわけでもない。
「……シオン」
「何」
「その時、あなたは気づいてたんですか」
「薄々は」
「じゃあ、やめようとは」
「思ってた。でも」
「でも?」
「抜けるの、怖かった」
その言葉に、誉は息を止めた。
シオンは続ける。
「バンド辞めたら、俺には何も残らない気がしてた。名前も、家のことも、昔のことも全部嫌で、でも音楽だけは別だと思ってたから」
誉はただ黙って聞くしかなかった。
「だから見ないふりしてた。でも高瀬は、そこに慣れていった。俺らが目を逸らすたびに、もっと深いとこまで行った」
「それで解散」と相良。
「本名の件が引き金。でも本当は、その前から終わってた」
部屋の空気は重かった。
ただ暗いだけじゃない。
いまここでやっと言葉になった過去の重さが、そのまま残っている感じだった。
相良が出ていったあと、しばらく誰も喋らなかった。
ホテルの部屋の薄い壁の向こうで、誰かがテレビをつけている音がする。
どうでもいいバラエティ番組の笑い声が、逆に遠かった。
誉はペットボトルのお茶を一口飲む。
ぬるい。
でも喉はやけに乾いていた。
「……北松」
「はい」
「さっきから静かだね」
「そりゃ静かにもなりますよ」
「引いた?」
その聞き方が、少しだけ意外だった。
誉は顔を上げる。
シオンはベッドに座ったまま、壁にもたれ、どこでもないところを見ていた。
軽い調子で言っているようで、実はそうでもない声だった。
「……何に」
「見ないふりしてたこととか。黒い金っぽいの分かってたのに、バンドにしがみついてたこととか」
誉は少しだけ考えてから答えた。
「引く、というより」
「うん」
「ずるいなって思いました」
シオンがゆっくりこちらを見る。
「ずるい?」
「はい」
「なんで」
「自分だけ軽そうな顔してるからです」
一瞬、シオンが何を言われたか分からない顔をする。
誉は続けた。
「勝手に人の部屋に上がり込んで、冷蔵庫開けて、厄介ごと面白がって。そういう人だと思ってたら、ちゃんとしんどいの抱えてるじゃないですか」
「……」
「それなのに、全部こっちから聞かないと出さないの、ずるいです」
部屋が静かになる。
言いすぎたかもしれない、と誉は少しだけ思った。
でも、もう遅い。
シオンはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
今まででいちばん弱い笑い方だった。
「……何それ」
「ほんとです」
「怒ってる?」
「ちょっと」
「なんで北松が怒るの」
「なんか腹立つからです」
「理不尽」
「そうですか?」
「でも」
シオンは少しだけ目を伏せる。
「ありがと」
その“ありがと”は、今までのどんな軽口よりも静かで、まっすぐだった。
誉は視線を逸らした。
真正面から受け止めるには、少しだけ照れくさかった。
「……別に」
「照れてる?」
「照れてません」
「じゃあなんで目そらすの」
「うるさいです」
シオンが少し笑う。
今度はちゃんと、いつものシオンに近い笑い方だった。
その少しあと。
相良から連絡が入り、例の旧ライブハウスの場所はすでに確認済みだと伝えられた。
新宿から少し離れた、今は使われていない雑居ビルの地下。
かつて小さなライブハウスが入っていたが、数年前に閉店。
今はテナント募集のまま放置されているらしい。
「……いかにも」
誉が言うと、シオンが頷く。
「高瀬、そういうの好きそう」
「好きそうっていうか、性格悪いだけでは」
「それもある」
誉はベッドの端で姿勢を正した。
「で、明日行くんですよね」
「たぶん明日じゃない」とシオン。
「え?」
「高瀬のあの感じだと、たぶん“今夜”か“明け方”」
「なんでですか」
「間を空けるタイプじゃないから」
「それ、嫌な理解度だな……」
その時、相良からまた通話。
誉がスピーカーにする。
『こちらでも同じ見立てです』
「うわ、聞こえてたみたいで嫌だな」と誉。
『嫌でしょうね』
「否定しないんだ……」
相良は続ける。
『現地はすでに最低限の確認を進めていますが、完全突入はまだしていません。高瀬がシオンさんを呼んでいる以上、相手は“本人が来ること”を前提に動く可能性が高い』
「じゃあやっぱり行くんですね」と誉。
『ええ。ただし、こちらも十分に備えて』
誉は深く息を吐いた。
行くしかない。
そう思っていた。
思っていたが、実際に言葉にされると胃が重い。
「……シオン」
「何」
「ひとつだけ」
「うん」
「本名、言わなくていいですからね」
シオンが少し目を見開く。
「え」
「向こうがどう言おうと、別に今ここであなたがその名前を名乗る必要はないでしょう」
「……」
「呼ばれたくないなら、呼ばれなくていいです」
誉は自分でも驚くくらい自然にそう言っていた。
シオンはしばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「北松」
「はい」
「それ、けっこう救われる」
誉はまた視線を逸らした。
今日はそういうのが多い。
「……ならよかったです」
夜はまだ終わっていなかった。
むしろ、これからが本番なのかもしれない。
使い捨てスマホ。
USBの受け渡し。
高瀬の挑発。
そして、潰れたライブハウス。
全部が、ひとつの場所へ向かっている。
誉は窓の外の暗さを見ながら思った。
最初はただ、終電間際に厄介な男と出会っただけだった。
それが今は、その厄介な男の過去のど真ん中まで一緒に歩こうとしている。
どうかしている。
でも。
どうかしているのに、もう一人で引き返す気にはならなかった。