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第十二話【地下に残る音】
その雑居ビルは、思ったよりも普通だった。
新宿から少し外れた通り。
居酒屋と事務所が混ざったような、ありふれた外観。
だが一階のテナントはほとんど空きで、明かりもまばらだった。
「……ここ?」
北松誉が小さく言うと、隣のシオンが頷く。
「ここ」
「ほんとにライブハウスあったんですか」
「地下に」
「全然そんな感じしないですけど」
「だからいいんだよ」
相良が前に出る。
「警戒を維持したまま入ります。シオンさん、北松さん、必ず私の指示に従ってください」
「はい」と誉。
「了解」とシオン。
だがその“了解”の声は、いつもより低かった。
入口の自動ドアは壊れていて、半分開いたまま固定されている。
中に入ると、空気が一段冷たかった。
照明はところどころ点いているが、全体的に暗い。
エレベーターは止まっている。
階段しか使えない。
「地下は一階分だけです」と相良。
「降ります」
足音がやけに響く。
コンクリートの階段。
壁に残った古いポスターの跡。
剥がれたテープ。
誰もいないのに、“何かがあった場所”の匂いが残っている。
誉は無意識に息を浅くした。
その隣で、シオンは何も言わずに降りていく。
だが歩幅がほんの少しだけ変わっているのに、誉は気づいた。
「……シオン」
「何」
「大丈夫ですか」
「何が」
「ここ」
シオンは一瞬だけ止まりかけて、すぐにまた歩き出した。
「大丈夫じゃないけど、行くしかない」
それだけ言う。
誉はそれ以上何も言わなかった。
地下に着くと、そこには鉄の扉があった。
かつてのライブハウスの入口。
今は閉ざされているが、鍵はかかっていない。
相良が手袋をはめる。
「開けます」
きぃ、と鈍い音。
扉の向こうは、暗闇だった。
ライトが点けられる。
白い光がゆっくりと広がる。
そこは——
「……ほんとにあったんだ」
誉が呟く。
小さなステージ。
剥がれた黒い床。
天井から垂れた配線。
壁に残る落書きと、消えかけたバンド名。
すべてが止まっている。
「……ここ」
シオンが一歩踏み込む。
「昔、ここでやってた」
その声は、どこか遠かった。
誉は周囲を見回す。
ステージ前の床。
客がいた場所。
バーカウンターだったであろうスペース。
想像はできる。
ここに音があって、人がいて、熱があったこと。
でも今は、何もない。
——いや。
「……音」
誉が小さく言う。
「え?」
「聞こえません?」
全員が耳を澄ます。
最初は分からない。
だが、数秒後。
かすかに。
低いノイズ音のようなものが聞こえた。
「……ほんとだ」
相良が周囲を見回す。
「どこからだ」
シオンがすぐにステージ側へ向かう。
「こっち」
誉も続く。
ステージ裏の小さな扉。
半開きになっている。
シオンがそれを押す。
中はさらに狭い部屋。
機材置き場だった場所だろう。
そして——
「……っ」
誉が息を呑む。
そこに、高瀬がいた。
壁にもたれ、腕を組んで立っている。
まるで最初から待っていたみたいに。
「……来たな」
低い声。
シオンが一歩前に出る。
「高瀬」
「久しぶり、って言うべき?」
「言わなくていい」
空気が一気に張りつめる。
相良がすぐに前へ出る。
「警察です。動くな」
だが高瀬は微動だにしない。
「動くなって言われて動くやつに見える?」
「試してみますか」
そのやり取りの間、誉は高瀬を見ていた。
間違いない。
駅で見た男だ。
そしてシオンが言っていた通り、どこか“人の内側を覗いてくる”ような目をしている。
「……で」
高瀬がシオンを見る。
「本名で来た?」
シオンの眉がぴくりと動く。
だが、何も言わない。
「だろうな」と高瀬。
「お前、そういうとこ変わってない」
「変わったよ」
「どこが」
「お前と組んでないとこ」
高瀬が笑う。
「それはたしかに」
誉はそのやり取りを見ながら、背中が冷えるのを感じていた。
この二人、軽く言葉を交わしているようで、
一歩間違えればすぐに壊れそうな空気をしている。
「で、何の用ですか」
相良が言う。
「呼び出したのはあなたでしょう」
「そうだよ」
高瀬はあっさり答える。
「話したかった」
「何を」
「昔話」
「ふざけてるのか」と相良。
「半分はね」
また“半分”だ、と誉は思った。
だがシオンは笑わない。
「本題は」
シオンが言う。
「USBの中身だろ」
「さすが」
高瀬がゆっくり頷く。
「察しがいい」
「で、何が入ってる」
「データだよ」
「何の」
「売れるやつ」
誉の背筋がぞくりとした。
「売れるって……」
「個人情報。アカウント。決済情報。色々」
相良の目が鋭くなる。
「それを流すための飛ばし端末か」
「そう」
高瀬はあっさり認めた。
「端末で連絡網作って、USBで元データを渡す。分散させて、追いにくくする」
「組織的犯罪だ」と相良。
「そうだね」
まるで他人事のような口調だった。
誉は思わず言った。
「……なんでそんなこと」
高瀬の視線が、初めて誉に向く。
「お前、北松だっけ」
「……はい」
「見てるな、お前」
その一言で、背中に冷たいものが走る。
「だから使われかけたんだよ、秋山に」
「っ……」
「でもさ」
高瀬は少しだけ笑う。
「使うには惜しいタイプだな」
「どういう意味ですか」
「見すぎるやつは、途中で止まる」
誉は言い返せなかった。
その通りかもしれないと思ってしまったからだ。
高瀬は再びシオンを見る。
「で」
「お前は、どこまで来る?」
「何が」
「こっち側」
空気が一瞬で凍る。
「お前、昔と同じ顔してる」
「どんな」
「見て見ぬふりできなくて、でも全部壊す勇気もない顔」
シオンの拳が、わずかに握られる。
誉はそれを見て、反射的に口を開いた。
「違いますよ」
全員の視線がこちらに向く。
「何が」
「この人、前よりちゃんと嫌がってます」
高瀬が眉を上げる。
「は?」
「見て見ぬふりしてたなら、ここ来てないでしょう」
シオンが小さく息を呑む気配。
誉は続ける。
「あなたみたいに、“分かっててやってる”のとは違う」
数秒の沈黙。
高瀬はそれから、ふっと笑った。
「……面白いの連れてるな」
「だろ」とシオンが言う。
ほんの少しだけ、いつもの調子が戻る。
「で」とシオン。
「結局何がしたい」
「簡単だよ」
高瀬はポケットから一本のUSBを取り出した。
「これ、やる」
相良がすぐに反応する。
「動くな!」
「投げるだけ」
高瀬は軽く放った。
USBが床に転がる。
「……何のつもりだ」
「餌」
「餌?」
「中身、見れば分かる」
高瀬は一歩後ろに下がる。
「その代わり」
「代わり?」
「全部止められると思うなよ」
その言葉と同時に。
部屋の奥の非常口の扉が、ガン、と開いた。
「逃げる!」と誉。
「待て!」と相良。
高瀬は振り返らずに走る。
だがシオンは、動かなかった。
「……シオン?」
誉が声をかける。
シオンは、床に転がったUSBを見ていた。
「……北松」
「はい」
「これ、やばいかも」
「何が」
「たぶんこれ」
シオンはゆっくり言った。
「“全部”の入り口」
誉はそのUSBを見つめた。
たった一本。
でも、その中に、この事件の核がある。
そう直感で分かった。