「おい、響。父さんの言ったこと真に受けるなよ? 俺は絶対に許さないからな」
その声に反応してチラリと視線を向けてみると、そこには恐ろしい顔をしてひぃくんを睨みつけているお兄ちゃん──ではなく、いつの間にやら変化した鬼がいる。
(ヒ……ッ! おっ、お兄ちゃん怒ってらっしゃる……っ)
その迫力に、思わずブルリと身体を震わせる私。そんな私の視線に気付いたお兄ちゃんは、ひぃくんから私へと視線を移すと口を開いた。
「わかったな? 花音」
「……っ!? はヒッ……」
あまりの恐ろしさに震えあがると、私は小さな声で間抜けな返事を返す。
(な、なんで私まで……。そんなに怖い顔でこっちを見ないで……っ)
恐怖に慄く私の姿を見て、お兄ちゃんの背後でプッと小さく笑い声を漏らした彩奈。
「ラブラブだからってヤキモチ妬かないでよー、翔」
ニコニコと微笑むひぃくんは、震えている私を抱きしめると「翔怖いねー」と言って私の頭を優しく撫でてくれる。
「そうだぞ? 翔。ヤキモチなんて妬いてないで、お前も子作りに励めよ」
お兄ちゃんの肩にポンッと手を置くと、ニコッと爽やかに笑ったお父さん。
その横で一部始終を見ていたはずのお母さんは、「そろそろご飯作らなきゃ。今日は皆んな、お夕飯食べていってね?」と優しく微笑むとキッチンへと消えてゆく。
(なんて自由なの……この状況で私を置き去りにするなんて……。薄情すぎるよ、お母さん……っ)
自分の置かれた状況に愕然とする。
今私の目の前にいるのは、爽やかに笑っているお父さんと、呑気にニコニコと微笑んでいるひぃくん。そして、そんな二人を恐ろしい顔で睨みつけている鬼なのだ。
そんな三人の姿を前に、薄情なお母さんを怨めしく思う。
ワナワナと震えて恐ろしい顔をしているお兄ちゃんからは、今にも爆発してしまいそうなほどの怒りを感じる。
そのあまりに恐ろしい光景を目の当たりにした私は、思わず目眩で気が遠のいてゆく。今にも気絶してしまいそうだ。
怒り狂う鬼の背後にいる彩奈をチラリと見てみると、随分と冷静にこの光景を眺めている。
──否。むしろ呆れているといった感じだ。「やれやれ」といった風に、小さく溜息を吐いている。
(目の前にあんなに恐ろしい鬼がいるっていうのに……よくもまぁ、そんな呑気に。背後にいるから見えてないのね、きっと……)
そんな事を考えながら見つめていると、私の視線に気付いた彩奈と視線が絡まり、反射的に引きつった笑顔を見せる私。
(彩奈……。あなたのダーリン、今とんでもなく恐ろしい顔してますよ……?)
引きつった笑顔のまま、私は堪らずフヒッと変な声を漏らす。
「……っ、誰がヤキモチだよ!? ふざけた事ばっか言ってるなよっ!!」
────!!!?
突然の鬼の大噴火に、驚いた私の身体はビクリと小さくその場で飛び跳ねた。
「どうしたんだよー、翔。糖分足りてないんじゃないか? ホラ、飴でも食べとけ」
ポケットから飴を取り出したお父さんは、爽やかに笑うとお兄ちゃんに向かって飴を差し出す。
それを見ていたひぃくんは、ニッコリと微笑むと口を開いた。
「お父さんの言う通りだよー? 翔。あっ……間違えちゃった、お兄ちゃん」
そう言って、フニャッと笑って小首を傾げる。
「……っ!? 何が間違えただっ! お兄ちゃんて呼ぶなっ! それに、何ちゃっかりお父さん呼びしてるんだよ! お前の親父じゃないだろ!?」
お兄ちゃんの言葉に、キョトンとした顔を見せるひぃくん。
「え? だって……花音と結婚するんだから、翔はお兄ちゃんだしおじさんはお父さんだよ? ……そうだよね?」
「うんうん。そうだぞー、響。怒りん坊なお兄ちゃんだけど、よろしく頼むな?」
首を捻るひぃくんに対してそう答えると、ニコニコと嬉しそうな顔で微笑むお父さん。
「うん。でも、お兄ちゃんて本当に怒りん坊さんだね。まだヤキモチ妬いてるのかなー?」
「そうだなぁ、花音と響がラブラブすぎるからな〜。……ほら翔、飴」
ひぃくんと楽しそうに会話を弾ませるお父さんは、その視線はひぃくんへと向けたまま、お兄ちゃんの目の前で飴をヒラヒラとさせる。そんな二人を見て、ハラハラとする私とプルプルと震えて俯くお兄ちゃん。
その姿を目にして流石に心配になったのか、お兄ちゃんの袖をキュッと掴んだ彩奈。そんな彩奈の行動にピクリと肩を揺らしたお兄ちゃんは、フッと肩の力を抜いて彩奈の手に触れると、一度小さく息を吐いてからゆっくりと顔を上げた。
(あ……、あれ? 鬼じゃ、ない? ……よ、よかったぁ)
ビクビクとしていた私は、お兄ちゃんの顔を見るとホッと安堵の息を吐く。けれど、何だかその表情はやけに真剣な面持ちで、一体どうしたのかと様子を伺う。
すると、ツカツカと無言のままひぃくんの元へとやってきたお兄ちゃんは、ポンッとひぃくんの肩に手を置くと、横にいる私をチラリと見下ろした。
(え……な、何ですか……?)
反射的に怯えて引きつる私の顔。
そんな私を見て小さく溜息を吐いたお兄ちゃんは、ひぃくんの耳元に顔を寄せると口を開いた。
「響。頼むから避妊だけはちゃんとしろよ」
────!!!?
お兄ちゃんの口から出てきた言葉に、驚きで我が耳を疑う私。
(お兄ちゃん……今、なんて……っ?)
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。花音の事はずっと大切にするから。だから安心してね?」
答えになっているのか、いないのか……。そんな返事を返したひぃくんは、フニャッと笑うと小首を傾げた。
そんなひぃくんを見て、一瞬眉をひそめたお兄ちゃん。チラリと私を見て一瞬寂しそうな顔を見せると、その視線を再びひぃくんへと戻す。
「……お前のこと信じてるからな」
「うんっ」
ひぃくんの返事に静かに目を伏せたお兄ちゃんは、そのままクルリと背を向けると彩奈のいる方へと戻ってゆく。
(え……、お兄ちゃん? 私、まだ無理だよ……子作りなんて……っ)
お父さんに捕まり、「翔、飴いらないのかー?」と絡まれているお兄ちゃんの姿を見つめながら、私は一人取り残された気分になる。
(ねぇ……、私の気持ちは……? それって一番大事なとこじゃ……)
「良かったねー、花音。これで安心だね?」
私の隣で嬉しそうな声を上げるひぃくん。
そんなひぃくんを見上げて、私は盛大に顔を引きつらせた。
(……とっても不安。むしろ、不安しかないよ……っ)
今や、ひぃくんの暴走を止めてくれる味方が、誰一人としていなくなってしまったのだ。
(お兄ちゃん……っ。どうして私を見捨てるの? ……なんで? お願いだから私を見捨てないで……っ)
ひぃくんを見上げたまま情けない顔で懸命に笑顔を作った私は、心の中でお兄ちゃんに向けて必死にそう願い続けた。