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大量の湯を汲み、王国まで運んだシトリン一行は翌朝、あらかじめ用意してあった大樽にそれらを注ぎ込んだ。
巨大な樽である。赤竜の巨体には敵わないが、人の背丈よりずっと大きく、運んできた湯(とっくに冷めて水になっているが)を全て注いでも、まだ余裕があるそうな大きさだ。
そこにはしごを掛けて、逞しい男達がバケツリレーで繋ぎ、どんどん水を注いでいく。
樽が設置されているのは、貴族区画と商業区画の境目の辺り。商業区画を挟んで、貴族区画と平民区画があるので、野次馬の身分も様々であった。
朝の買い物に来た奥様だの、担ぎ売りの商人だの、使いの途中でたまたま通りかかった下男下女だの、野次馬根性の旺盛な貴族だの。
少し前にシトリン王女が怪物が住まう火山に行き、昨日またそこに向かった事は既に王国中に知れ渡っている。
そして、ディデル騎士団長が護衛として帯同した事もまた、王国中の知る所である。
だから、そのディデル騎士団長がごろつき染みた男達を指揮して、樽に水を注がせているのだから、これはシトリン王女の命令である事が容易に想像できる。
「姫様は一体何を始めたんだべや?」
「あんばけもんのいる山に行ってきたって話だども、危なくねえべか?」
訛りのきつい老夫婦が、遠くなったお互いの耳に届くように、大声で喋っている。
「なんでも、あの山に湧いとる湯を汲んできたらしいべ」
群衆の耳が、老翁の言葉にピクリと動く。老人というのは、身体が衰えてあまり出歩けないから、その娯楽は主にお喋りだ。
だから異様なほど噂話に聡い者も多い。あの老人も、その類であるようだ。
続いて老婆が喋る。
「わざわざ湯なんて汲んできて、何に使うんじゃろかのう」
老婆は、首をひねってしばしウ〜ンと唸った後、何かを閃いたようで目を見開き、手をポンと打った。
「ひい爺さまから聞いた事があるべ!あの山の湯は、万病に効くんじゃと。若え頃、いっぺん入ったが実に良かった、また入りてえと言っとったべ!」
老婆の声に、群衆の視線が集まる。老婆の曽祖父の時代の話であるから、相当に昔の話だ。それも、その口ぶりからして、曽祖父が若い頃の思い出話のようだから、尚のこと昔の話である。
「ほんにか!わしの腰も治ったらええのう!」
老翁は、本気で信じてはいないようだが、おしどり夫婦の仲の良さからか、敢えて乗ってあげる事にしたようだ。老人二人は、わっはっはと笑って、別の話題に移っていった。
年寄りの話が一段落ついた頃、ようやくに湯運びが終わり、男衆が汗だくでフウと一息ついた。
傍から見れば、ずいぶんと骨の折れる仕事に見えたが、本人達は赤竜居ない分、普段通り働けばよかったので、何ほどの事もない仕事だった。
それから少しして、ディデルと男衆が急に一方向を向いて居住まいを正したので、民衆も同じ方向を目をやり、そして慌てて同じように居住まいを正した。
視線の先には、ラヴァリン王国第三王女、シトリン・ドゥ・サフィニアの姿。
その美しさと気品は、王女が一歩進むごとに人々の呼吸を忘れさせた。
お転婆姫などと揶揄される事もあるが、ドレス姿で悠然と歩む姿は実に可憐。
一歩歩むたびに、スカートのフリルが花のように舞う。1日で山を行ったり来たりする逞しさなど微塵も感じさせない、一晩だけ月下の下で咲く花のような儚ささえ感じられる。
「お集まりの皆様、お忙しい事とは存じますが、しばしこのシトリン・ドゥ・サフィニアの話にお付き合い頂けますでしょうか」
シトリンは鈴の転がるような美声で、聴衆に呼びかけた。老夫婦のような大声を出す必要はない、皆一様に、王女様の声に耳を傾け、辺りはしんと静まりかえっている。
「皆様は、かつてこの国に存在した、竜神信仰をご存知でしょうか」
聴衆は、姫様は何を言っているのかという様子で、隣の人の顔を見合わせたり、首を傾げたりしている。
先程の老夫婦も、竜神信仰については知らないらしく、戸惑いを見せている。
シトリンは、その様子に構わず続ける。
「ご存知無いのも無理はありません。わたくしも、書庫を漁ってようやく古い資料を見つけたのですから。あの山に住まう……あまりこのような呼び方はしたくありませんが、人喰いの怪物と呼ばれている竜は、かつて癒しの竜神様と呼ばれ、竜神様が浸かった泉は、万病に効くと伝えられていました」
聴衆は相変わらず黙っているが、先程までの厳粛な雰囲気で黙っているのとは違い、唖然として声も出ないといった雰囲気だ。
それでもシトリンは、演説を続ける。ここで自分が少しでも臆した風を見せたら、説得力が損なわれる。そう感じていたからだ。
「わたくし先日、そして昨日も、その竜に謁見して参りました。とても友好的なお方で、こちらの話に興味深く耳を傾けていただきました。そして、泉の水を汲み出す許可もくださいました」
シトリンがそこまで言うと、聴衆が僅かにどよめいた。
あの山に行ってきたというだけでも驚きなのに、怪物と会ってきたと言われたら、驚くどころの騒ぎではない。
その怪物が友好的で、なにやら交渉までしたという話はもはや、理解不能の領域である。
「こちらに見える大きな樽にございますが、これには先程言及した竜の泉の水が満たされております。本日はこれを、皆様にお配りしたく思います。どうぞ、お持ち帰りになってくださいませ」
聴衆は、どうしたものかと困惑した。姫様がくれると言った物を、無下に断るのは国民としてどうなのか。だからと言って、怪物が浸かった水を受け取りたいとも思わない。
そんな微妙な空気を打ち払ったのは、この中で唯一温泉の薬効を知る、あの老婆であった。
「こりゃあありがてぇだ。爺さん、家から鍋でもやかんでもええから持ってくるべ」
そう大声で言い放ってから、平民区画へと足早に(とはいえ老人なので、老人基準での足早ではあるが)歩いていった。
「婆さん、そげな事して腰でも痛めたらどうするだ」
「腰痛めたら、こっちゃの水で治したらええ!」
「わっはっは!それもそうだべ!」
老夫婦が歩み去ると、他の者達もなにやら、あれほどの年長者が言うなら信憑性があるのかもしれないと、動き出し、やがて、それぞれに入れ物を携えて列を作った。
それからというもの、山には毎日のように荷運びの衆が訪れるようになった。
しかし、男衆は赤竜と会話したがらないし、シトリンや従者のロシュフォール、護衛のディデルは来なかったので、赤竜には事情が今ひとつ把握できていない。
「おい、そこのお前」
「ひゃいっ!なんでしょう竜神様!」
事情を聞くために赤竜が話しかけると、男衆は過剰に怯える。何度も来ている男なので、そろそろ慣れてくれてもよさそうなものだと思うのだが。
「お前達は最近頻繁に来るが、それは水が売れておるという事で良いのか?」
「へ……へえ、どれくらい売れてるとか、具体的な事はあっしら下賤のモンには分かりやせんけど、大層評判でごぜえやす………」
「ふむそれは良いことだ。ならば何故、あの娘……シトリンと言ったな、ここに顔を出さぬ?」
「シトリン様は、単純に忙しいんで………。王族としての公務と、開いた時間は水の宣伝していなさって、それだけでそこらの商人より働いているくらいでございやすから……」
「なるほどな。仕事の邪魔をして悪かったな、もう行ってもよいぞ。シトリンには無理はするなと伝えておけ」
「へ、へえ!それはもう間違いなく伝えますので!では失礼しやす!」
呼び止められた男は、ようやく解放されたとばかりに、慌てて去っていった。
評判が良いという事は、湯の薬効が認められたという事だろう。それでもやはり、人間目線ではまだまだ、自分は怪物扱いという事なのだろうか。
まあいい、この山に観光客が訪れぬとて、国が潤えばいずれ御馳走にありつける事だろうと、赤竜は気を取り直した。
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