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レモニカをじっと見据えたボーニスが獣の如き姿勢のまま剣を抜き放つ。すると、夜が震えた。磨きに磨き抜かれた刀身は辺りを払う魔を放ち、湖のそばの木立に潜む敏い鳥獣を騒がせる。
衝撃と共にレモニカの得た音の視界が崩壊する。あらゆる音の情報が切り刻まれ、意味をなさなくなる。吐き気に押され、頭がどうにかなる前にレモニカは抵抗を試みる。大木のような腕を振り、巨大な扇のごとき飛膜を振るうが、激烈な痛みが走り、仰け反り、凍り付いた湖面に倒れる。ボーニスは己が最も嫌う生き物に躊躇いなく斬りつけた。ボーニスにとって、その嫌悪と恐怖は結びつかない種類だということだ。
レモニカはなおも腕を、飛膜を振るうが、ボーニスは難なく避けてレモニカの懐に飛び込み、片手と片足で艶やかな毛に包まれた腕を押さえつけ、冷たい刃を天鵞絨の首元に押し付ける。
「さあ、遊びは終わりです。首を刎ねられたくなければ変身を解きなさい」ボーニスは淡々と宣告する。
そこに譲歩する余地はないことが分かる。ボーニスはレモニカが自在に変身できるものと思っているようだ。
レモニカは何とか蝙蝠の王の口を動かして話す。「できません。わたくしの意思で変身しているわけではありませんの」
しばらくの沈黙ののちボーニスは言う。「そうですか。その可能性も考えていましたが、それは難儀な怪物ですね。とはいえ、まずはそれが本当かどうか確かめなくてはなりません」
そう言うとボーニスは剣の刃を立てるが、ほぼ同時に舌打ちをし、両腕をも使って大きく飛び退く。強力な風がレモニカの周囲を渦巻いた。同時に十数匹の炎の獣が飛び出してきて、ボーニスに躍りかかる。
「大丈夫!? レモニカ!?」
レモニカの体が女の焚書官となって、ユカリに抱き起こされる。
「はい。掠り傷ですわ」とレモニカは言ってみせる。
遠慮でも何でもなく、本当に掠り傷となっていた。切り裂かれた蝙蝠の王の飛膜は、人間でいえば指の間の水かきの部分であり、傷はそのまま比率に合わせて縮んだのだった。
「すばしっこい!」とベルニージュが叫ぶ。
魔導書の衣を伴うベルニージュの魔法は強大であり、炎の獣はさらに増えて三十を超えている。その火花散らす鉤爪を凍った湖面に食い込ませ、ボーニスの周囲を躍動する。しかしボーニスは獣の牙も爪もあしらい、魔法の剣を振るって軽々と炎を掻き消す。剣に秘められた魔の力は、振るうたびに鐘の如き大音声となって湖に響き渡る。びりびりと空気を振動させ、三人の心臓を打ち、戦の災い迫る街に響き渡る警鐘のように、レモニカたちの心を焦慮させる。
炎の獣は魔導書の衣の力を借りて無尽蔵に湧き出るが、ベルニージュの制御する数に限界が訪れていた。一方ボーニスも炎の獣を潜り抜けて、レモニカたちへ迫ることができず、攻めあぐねている。
戦いが拮抗していることをベルニージュは腹立たしく感じているのだとレモニカにも分かった。魔導書使いに抵抗できるとすれば、相手も魔導書使いだということだろうか。
「手を貸してよ、ユカリ。もしくは他の魔導書を貸して!」
「それより対岸の町に逃げよう、ベル」とユカリは提案する。「食堂で手を出してこなかったってことは何か理由があるんだよ、ボーニスには。目立ちたくないとか、他人を巻き込みたくないとか」
「やだよ」とベルニージュが我が儘を言う。「このままじゃワタシが負けたみたいじゃないか」
ユカリが否む。「引き分けだってば。早く行くよ!」
ユカリが無理やりベルニージュの手を引くと、グリュエーが猛り狂うような風を吹かせる。三人の娘は勢いよく転び、氷の上を滑る。
「痛い痛い痛い」とベルニージュが叫ぶ。「ちょっと待って! 何か敷くものないの!?」
ユカリが命じて、グリュエーが止む。レモニカたちは凍った湖の上で体勢を立て直す。レモニカは来た方向に目を凝らすが、既に炎の獣たちは消え失せ、ボーニスの姿は見えない。音も聞こえない。
「魔導書の衣を敷けばいいんじゃない?」とユカリが提案する。「魔導書なんだし、丈夫でしょ。たぶん」
「それは、そうかもしれないけどさ」と言ってベルニージュは渋る。「寒いんだけど」
「じゃあ、グリュエー、お願い」とユカリは無慈悲に命じる。
「分かった! 分かったって」ベルニージュは渋々魔導書の衣を脱いで氷の上に敷く。「ほら、早く二人もつかまって」
その時、一際大きな鐘の音が夜闇の奥から響き渡り、氷の湖面を叩いて震わせる。次いで何かが次々に破裂する音が聞こえる。
レモニカは慌てて叫ぶ。「何かが近づいてきます! ユカリさま! 急いで!」
破裂音がどんどん大きくなり、三人の元へと近づいてくるのが分かる。
三人は魔導書の衣につかまり、グリュエーの風に乗った。走るよりも遥かに速く、凍った湖を突き進む。しかし破裂音は遠ざからず、徐々に徐々に距離を詰められている。
後ろの闇を見つめるレモニカはその正体を捉える。それは湖の氷を走るひび割れだ。しかし弾けて破裂した氷が全て前方に、レモニカたちの方へと飛んで来る。まるで氷でできた大波だ。
気づいた時には小さな氷の破片が三人に降りそそぐ。力強く砂をぶつけられるような痛みが三人を襲う。もしもひび割れそのものにつかまればひとたまりもないだろう。
これもまたボーニスの剣の放つ魔法の力なのだ。他に考えられる当てはない。
「後ろ! どうなってるの!?」と先頭のベルニージュが叫びながら問う。
「氷のひび割れが迫ってますわ! まるで蛇みたいにわたくしたちを追ってきています!」と殿のレモニカが答える。
「一気に溶かす! ユカリ、魔導書、貸して」
ユカリは何も言わずに合切袋をベルニージュの肩にかけ、合切袋ごと魔導書を渡した。
ベルニージュが複雑にして壮麗な呪文を一息に唱えると、前方に炎の柱が二本立ち昇り、炎の巨人が現れる。それはまだレモニカが見たことのない、かつてリトルバルムの街で熾した炎の巨人と同じ大きさだった。ただ、かつてのはったりと違い、その威容に相応しい凄絶な熱と酷烈な光を放っている。
魔導書の衣に乗るレモニカたちは勢いのままに、腕を大きく振り上げる炎の巨人の股をくぐり、炎の巨人は猛々しく燃え上がる拳で魔法のひび割れを殴りつける。その激しい熱は氷を瞬時に消しさり、湖を沸騰させ、蒸発させた。水蒸気の塊が破裂し、雷鳴の如く轟き、レモニカたちを吹き飛ばした。
魔導書の衣から投げ出され、氷の湖面を転がるも三人はすぐに立ち上がり、お互いの無事を確認する。
「やり過ぎだよ、ベル」とユカリが膝をさすりながら言う。
「あの状況で加減なんかできないって」とベルニージュは反論する。
レモニカは近くに会った魔導書の衣を拾い上げて、ベルニージュの元へ行く。男の姿になりつつ、ベルニージュが衣を着るのを手伝う。ベルニージュは興奮でレモニカが男の姿になっていることに気づかなかった。
今の逃走劇の内に、湖を八割ほど渡ってしまったらしい。トットマの北に位置する街、深夜にあって光の絶えない南の港の姿が見える。
「ともかく、助かりましたわね」と言って、レモニカは大きなため息をつく。
魔法のひび割れは消え、ボーニスの姿はない。何とか逃げ切ったのだ。しかし新たな危険の兆候をレモニカは聞き逃さなかった。軋むような音が這い寄って来る。
それはやはりひび割れの音だった。しかし魔法とは無関係な、ただのひび割れだ。冬の湖に飛び込む悪夢から三人は必死になって逃げた。
炎の巨人を見たであろうマニクトラの街の人々に見咎められないよう、レモニカたちは街を回り込んでから入った。できるだけましな宿を探し、外よりはましな部屋へと転がり込む。残念ながら暖炉はなかったが、三人は毛布に包まった。寝台に座って身を震わせてお互いを見合わせて苦笑する。
「寒いし、疲れたし、眠い」とユカリがこぼす。
危険から遠ざかり安寧を得ると、今度は己の軽率な行いを振り返り、レモニカの心は氷の湖の底に沈む。
元型文字を作る方法を思いついたところまでは良かった。どうして夜の内に一人でそれを行ったのだろう。翌朝にでも二人に話して元型文字完成の喜びを分かち合えば良かったのだ。省みても、もはや自分自身にも自分自身が分からない。閃きを得て、思いあがったか、でなければ浮かれたのだ。
「そういえばレモニカ」とユカリに言われ、レモニカは身を固くする。「何の文字を完成させたの?」
ベルニージュが毛布の中で身を捩って、魔導書の衣を脱ぎ始める。レモニカは口から出かけていた謝罪の言葉を一度引っ込めて答える。
「【安息】ですわ」レモニカは一つ一つ各種の呼び名を言葉にする。「荒れ野の泉、血、清い水、曇りなき鏡、祭壇、捧げ持つ者」
「今のワタシたちに最も必要な物だね」ベルニージュは魔導書の衣を床に広げて、その上で【安息】を使った魔術を行使する。
衣の上で炎が燃え上がる。しかし普通の炎とは違い、温かな熱と光だけではなく、包み込むような安息をもたらした。安息は三人の身も心も温かな羊毛のように包み込み、不安や焦燥、怪我や疲労を部屋の隅へと追いやる。
「それで?」とベルニージュが詰問するように問いかける。
体をこわばらせて謝罪の言葉を口にしようとしたレモニカに先んじて、ユカリが身を乗り出して言う。「どうやって元型文字を完成させたの?」
レモニカは謝罪ではない言葉を紡ぐ。「湖が凍っていたので、今なら血で書けるだろうと思ったんです」
「そうだった! 怪我!」ユカリが強く言う。「ベル! レモニカが怪我してるのも治して!」
「もう治ってると思うよ」ベルニージュは抱えた膝に頬を乗せて、あくびをしながら言う。
心配される資格などないと思いつつ、レモニカは毛布から手を出して、床の上の魔導書の衣の上の魔法の光に手をかざす。魔法の光は仄かながら手を透かす。確かに元型文字完成に利用した傷も、ボーニスにつけられた傷も閉じていた。
「ありがとうございます」とレモニカは呟く。「それに――」
「こちらこそありがとうね。レモニカ」とユカリは心底嬉しそうに言った。「レモニカがいなければどうなっていたことか」
レモニカは驚いて、感謝される資格などないと思いつつ、小さく首を振る。
「むしろご迷惑をおかけして申し訳ございません。身を寄せている立場でありながら、わたくしは、役に立とうと逸って……」
ユカリは朗らかに笑って言う。「でもレモニカの発想がなかったら私たち、気づかないまま冬を越えていたかもしれない」
「そうしたら来年までお預けだったかもしれないね。ぞっとしないよ」と言ってベルニージュは震える。
「もしくは北方の神秘の土地まで旅するとかね」ユカリは微笑んだままあくびする。「別に役に立とうとなんてしなくていいよ。役に立って欲しくて一緒に旅してるわけじゃないんだからさ。それはそれとして大金星なんだから、祝いたいくらいだよ。また何かレモニカの好きなものを買おうか」
それは優しい言葉でありながら、残酷な宣告のようにもレモニカは思えた。
「やめてください!」レモニカは声を荒げ、己の声に驚いて身を縮める。「わたくしには何が好きとか嫌いとか言う資格などありません。世に嫌いを振り撒く自分にそんな資格はありえないのです」
「でもその変身の特性は身を守るためのものでしょう?」とユカリは純粋に、問う。「獣にとっての牙や爪みたいなもので、場合によっては人を傷つけるのかもしれないけれど、大切な力なんじゃない?」
レモニカは静かに首を振る。相手を怪物だと考えながらも好意的に解釈するユカリにこれ以上黙ってはいられなかった。
レモニカは胸につかえていたものを全て吐き出す。「わたくしは人間なのです。少なくとも生まれた瞬間はそうだったと聞いています」
「そうなの!?」ユカリは申し訳なさそうに色づいた瞳をベルニージュに向ける。「ベル!? 聞いてる? 眠ってる場合じゃないよ!」
ベルニージュは目を瞑ったまま答える。「ワタシはその可能性について考えてたよ」
「それならそう言ってよ。私だけ馬鹿みたいじゃない」とユカリはむすっとして言う。
ベルニージュは夢見心地に呟く。「ユカリ、普通はね、人間以外は人間の言葉を喋らないんだよ」
「それは、そうだけど」
ユカリは認めがたいものを渋々認めているようだった。
「万物との会話を繰り返すうちに境界が曖昧になっているんじゃない?」
ベルニージュの指摘から逃げるようにユカリはレモニカの方を向く。
「それじゃあ、何でレモニカはそんな変身の力を身につけているの?」
レモニカは首を横に振って答える。「本当のところは分かりません。わたくしが産まれたその時、産婆が悲鳴をあげて逃げ出したそうです。出産に立ち会った母の友人によると、生まれた直後は間違いなく人間の姿だった、とのことです。その証言がなければ、わたくしはそのまま怪物として殺されていたことでしょう」
ユカリも、ベルニージュでさえも息を呑んだ。その夜、それ以上、三人が言葉を交わすことはなかった。