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「ところで母さんは?」
弟がひとしきり笑い終わるのを待って、輝馬はネクタイを緩めた。
「さあ?近所に買い物とかそういう系じゃね?」
凌空は何も言わなくても、スウェットのポケットから煙草を出してくれる。
晴子に見つかったら面倒だからもう少し慎重になってほしいのだが、こういうところは憎めない。
輝馬は箱の中から1本摘まみだすと、これまた凌空が準備してくれた百円ライターで火をつけた。
「んで?何アイツ。彼氏でもできたわけ?」
輝馬は右手で煙草をはさみ、左手で外したネクタイをダイニングテーブルの上でくるくると丸めながら、向かい側に座った凌空を見つめた。
「まっさかー。あれでしょ。合コンに人数合わせで呼ばれたとか、そういう系でしょ」
「いいよな、学生は気楽で」
輝馬は煙草を口にくわえ、大きく吸い込んでから吐き出した。
「何が専門学校だよ。タブレット1つで何が身に付くんだか。小学生のランドセルの中身のがまだマシだっての。3年間ただのお絵描きをして、何になるんだよ」
輝馬はテーブルの端にあった灰皿に白い灰を落としながら笑った。
「そんなんで仕事もらえるなら、うちのキャラデザ担当が泣いて悔しがるわ」
「ですよねー」
凌空が頷く。
「まあ、姉はあの通り残念だけどさ。俺、兄貴は結構自慢だったりするわけよ。スマホゲームの『作物ダイヤリー』とか、今やみんなやってるもんね。あのゲームも兄貴が携わってんの?」
「あ、ああ。まあな」
輝馬は凌空の問いに曖昧に答えた。
「すげー。マジでリスペクト。YMDホールディングスといえば、今や日本が世界に誇るゲーム会社だもんな」
凌空はテーブルの上で手を握るとうーんと伸びをした。
「俺も世界に羽ばたきたいよ」
他意なくそういう弟に目を細める。
「ならまずは受験勉強だ。間違っても趣味に毛が生えた程度の専門学校になんて入るなよ」
真面目に言ったつもりだが、弟は「へへっ」とまた口の端を歪めて笑った。
◇◇◇◇
「輝馬、いるの?」
ただいまも言わずに帰ってきた晴子が、玄関から大声を出す。
凌空があわててテーブル脇にある空気洗浄機のボタンを足で押し、輝馬も吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。
こういうコンビネーションはここに住んでいたときと変わらない。
「なんだ。来るなら来るって言ってくれればいいじゃない。そうしたら夕ご飯すき焼きとかにしたのに」
晴子が心底残念そうな顔をしていい、「ちぇー、兄貴にはあからさまに態度違うんだもんなー」凌空がご機嫌取りのポーズで拗ねる。
「当たり前でしょ。お兄ちゃんは毎日頑張ってるんだから」
ダイニングテーブルに買い物袋を置いた晴子が、長い髪の毛をかきあげて耳にかける。
大きく開いた襟元から、40代とは思えないほどきめの細かい白い肌が見える。
「輝馬、ごめん。今日、特売日でお醤油の瓶をたくさん買ったの。キッチンの上の棚に入れるの、手伝ってくれる?」
そう言いながら少し屈む。
「ね?あなた背が高いから」
向かい側にいる凌空からは気にならないだろうが、すぐ隣の輝馬からは、開いた胸元から中のブラジャーが見える。
「…………」
輝馬は母を見つめた。
少し頬が赤いのは、重い荷物を持って帰ってきたからではない。
絡みつくような濡れた視線。
自分はこんな視線を、大人になってからーーいや、物心ついたときからずっと、浴び続けてきた。
ーー腐りかけのすえたメスの臭いに吐き気がする。
しかし今日は拒否するわけにはいかない。
今日だけは、避けてはいけない。
「もちろんいいよ」
輝馬は微笑をたたえつつ、気づかれないように下唇を噛んだ。