テラーノベル
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朝の七時、水無瀬刑事は、離れの縁側に座っていた。
よれたトレンチコートの膝に、紙ばさみをのせて。
ミントガムの匂いが、朝の冷えた空気に混じっていた。
「ここに、お名前を」
差し出された被害届の、一番下の欄だった。
私は、ボールペンを右手に持った。
佐伯凛。
一画ずつ、ゆっくりと書いた。
凛さんの、丸い右上がりの字に似せようとして、途中でやめた。
これは、凛さんの字ではない。
凛さんの名前を借りた、私の字だ。
「……ありがとうございます」
水無瀬刑事は、紙ばさみを閉じた。
「犬に噛まれた腕は、放っておけば腫れる。あいつは、必ずどこかの医者に行きます。近所の病院には、もう声をかけてある」
玲司さんが、ハンカチにくるんだスパナを、縁側に置いた。
水無瀬刑事は、手袋をはめて、それをビニールの袋に移した。
「この顔で、この名前で届を出す。……そのことは、あとで必ず、ご自分で始末をつけてください」
水無瀬刑事は、私を見ずに言った。
「凛さんの名前で書いた紙は、全部、凛さんに返す。俺は、その日まで、この紙を預かるだけです」
*
母屋に戻ると、蒼真が、玄関ホールでスマホを耳に当てていた。
「出ないんだよ、堂島が。詰所にもいない。……車も、ない」
苛立った声で、もう一度、掛け直した。
それから、舌打ちをして、自分で車のキーをつかんだ。
麗奈は、食堂で、紅茶にミルクを入れていた。
私が足を引きずって入っていくと、麗奈は、カップの縁から目を上げた。
「足、どうしたの」
「……階段で、ひねりました」
「ふうん」
麗奈は、スプーンを、ゆっくりと回した。
「どこの、階段?」
答える前に、麗奈は、もう目を伏せていた。
唇の端だけが、少し上がっていた。
*
午後三時、離れの玲司さんから、メッセージが来た。
「隣の市の外科で、堂島が捕まった。犬に噛まれた腕を縫いに来たところを、水無瀬さんが」
スマホを持つ手が、止まった。
「暴行の容疑だ。あなたの被害届が、使われた」
凛さんの名前で書いた、あの紙が。
厨房の窓から、ガレージの前の、主のいない詰所が見えた。
いつも窓の内側に置いてあったハッカ飴の袋が、そのまま残っていた。
*
その夜、蒼真は、九時過ぎに帰ってきた。
厨房の入口に立ったまま、上着も脱がなかった。
顔が、白かった。
「警察から、電話があった」
声が、乾いていた。
「堂島が、捕まったって。……うちの家政婦に、夜の坂で、乱暴を働いたって」
蒼真の目が、私の包帯の足首に落ちた。
「凛さん。堂島は、君に、何をした」
「休みの帰りに、坂で、車に追いかけられました。茂みに飛びこんで、足をひねりました」
凛の声で、そう答えた。
「それだけでございます。……何が何だか、わかりません」
蒼真は、しばらく黙っていた。
左の手首の腕時計を、右手で何度も撫でていた。
「あいつ、何か、言ってなかったか」
「何か、と申しますと」
「……いや。いい」
蒼真は、えくぼを作ろうとして、作れなかった。
「怖い思いをさせたね。堂島には、うちの弁護士をつけない。あんな男、もう、うちの人間じゃない」
自分で切った命綱を、自分の手で、もう一度切り落とす声だった。
階段を上がっていく足音が、十三段目で、一度、ぎしりと鳴った。
*
次の日の夜、水無瀬刑事は、もう一度、離れへ来た。
卓袱台の前に座ると、ガムを包み紙に吐いて、ポケットにしまった。
「これから話すのは、独り言です」
八月にも、そう言った人だった。
「堂島は、取調室で、ずっと黙ってました。噛まれた腕を抱えて。……それが、今日の昼過ぎに、急に喋りだした」
「蒼真に、切られたと気づいたか」
玲司さんが言った。
「ええ。旦那の弁護士は、いつ来るんだって聞くから、誰も来ないと言ってやったんです。そうしたら、命綱を出してきた」
水無瀬刑事は、ポケットから、スマホを出した。
「駅裏の、古いビルの一階にある、月ぎめのロッカーです。一年分の料金を、前払いしてあった」
画面に、写真が出た。
ロッカーの中の、黒いビニール袋。
その中から出された、細いゴムの管。
ブレーキホースだった。
途中に、刃物で入れたような切れ目が、一本、斜めに走っていた。
「切り口が、妙にきれいでね」
水無瀬刑事は、八月と同じことを言った。
「それから、古い携帯電話が一台。去年の十一月の、通話の録音が入ってました」
次の写真に、指をすべらせかけて、水無瀬刑事は、手を止めた。
「再生は、しません。……文字にしたものを、読みます」
手帳を、開いた。
「『やれ。金は払う。来週の別荘の前に、あの白い車に』。……御影蒼真の声です。堂島が、自分の保身のために録っておいた」
私は、膝の上で、手袋の手を握りしめていた。
一年前の、あの夜の電話と、同じ人の声。
私を殺す段取りを、二度も、別々の受話器に向かって話していた人。
「それから、堂島は、もう一つ喋りました」
水無瀬刑事は、手帳のページをめくった。
「あの夜、燃える車の、助手席から女が這い出した。顔は見えなかった。旦那には、言っていない。……と」
離れが、静かになった。
ムギが、私の足元で、包帯の巻かれた足首に、そっと鼻を寄せた。
「これで、揃いましたね」
玲司さんが言った。
「部品と、指示の声と、実行犯の供述。……逮捕状は」
「取れます」
水無瀬刑事は、すぐに答えた。
「ただ、急がない」
「急がない?」
思わず、声が出た。
「あの人には、まだ、偉い友だちがいる。うちの署長のゴルフ仲間も、その一人です。署で逮捕状を請求すれば、話は一晩で上に漏れる。弁護士が五人ついて、病気だなんだで、入院でもされたら」
水無瀬刑事は、手帳を閉じた。
「署長を飛ばして、本部の一課に、直接持っていきます。それには、少し時間がいる」
「どのくらい」
「三週間は、かからない」
一周忌まで、三週間。
玲司さんと、目が合った。
「言い逃れのできない形で、一度に」
玲司さんが、静かに言った。
「人の目の前で。……あいつが、何も言い返せない場所で」
水無瀬刑事は、うなずいた。
「それと、もう一人のほう」
もう一つ、手帳を開いた。
「紗季さんの件。医院のカルテが出ました。四年前の九月から、花園麗奈に、同じ睡眠導入剤が三か月分。本人は、一度も不眠を訴えて通院した記録がない。最初の一回きりで、あとは電話で、薬だけ」
「源さんは」
「昨日、話を聞きました。一言も、迷わなかった」
水無瀬刑事は、新しいガムを口に入れた。
「麗奈の逮捕状は、こっちは早い。数日のうちに、請求します」
*
日曜日の昼、麗奈が、厨房に下りてきた。
観月会のお団子の、試作の日だった。
上新粉と白玉粉を、三対一。丸めて、茹でて、冷水にとる。
「ねえ」
麗奈は、配膳台の端に、スマホを置いた。
「これ、見て」
画面に、写真が一枚、映っていた。
暗い庭の向こうの、灯りのついた窓。
離れの、北の大きな窓だった。
窓の中に、二つの影があった。
一つは、背の高い男の影。
もう一つは、首にスカーフを巻いた、女の影。
二つの影は、額をつけて、重なっていた。
画面の隅の時刻は、午前一時十二分。木曜日の夜が、金曜日に変わったばかりの時刻だった。
「眠れなくて、お庭に出たのよ」
麗奈の声は、甘かった。
付け爪の指で、画面を、ゆっくりと拡大した。
「フラッシュ、消し忘れちゃった。……見えてたでしょ、光ったの」
手のひらの上で、丸めかけたお団子が、崩れた。
「ねえ、凛さん。家政婦が、雇い主の家の義理のお兄さんと、夜中に何をしてたのかしら」
麗奈は、スマホを手に取り、胸に当てた。
「観月会、楽しみね」
唇の端が、きれいに上がった。
「観月会で、この写真を、みんなに見せてあげる。家政婦が、義兄を誑かしたって」
コメント
1件
おお…コインロッカーか。ブレーキホースの切れ目、去年の事故の「部品」がここで出てくるの、マジで鳥肌立ったわ。蒼真の声の録音まで押さえた水無瀬刑事、仕事人すぎる。 でもラスト…麗奈が観月会で写真を公開するって笑顔で脅してくるの、あの甘い声のまま包丁みたいな言葉をポンっての、サスペンスとして上手すぎてぞっとした。三週後、どうなるんや…続きマジで待ってる🔥
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73