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「今野さん、署まで同行願います」
私が手錠に手をかけたその時、横から伸びてきた細い指が、私の手首を軽く叩いた。
「待ちなよ、南さん。君は本当に、差し出された餌を疑いもせずに飲み込むんだね」
柊さんは、あきれ果てたように吐き捨てた。
「でも、バッグから血の付いた財布が……!」
「だからこそ偽物なのさ。……さて、篠原さんが死んで一番得をするのは誰かな? 代役の今野さん? いや、彼女がこのまま容疑者になれば、次にコンサートマスターの座が転がり込んでくるのは君だよね。……手塚さん」
柊さんの視線が、楽屋の入り口で様子を伺っていたバイオリン奏者、手塚に向けられた。彼女は一瞬、息を呑んで顔を強張らせた。
「な、何を……! 私がそんな、座欲しさに久美さんを殺すわけないでしょ!」
「彼女が犯人なわけないだろ!」
割って入ったのは、チューバを抱えた斉藤だった。彼は手塚の前に立ち、私たちを鋭く睨みつける。
「篠原さんが死んだあの時間……昨夜の十一時頃なら、彼女は自宅で練習していたはずだ。僕が保証する!」
その言葉が発せられた瞬間、控室の空気が氷結した。
私は手帳を捲る手を止め、斉藤の瞳をじっと見つめた。
「……斉藤さん。今、なんて言いました?」
「え……?」
「昨夜の十一時。……私たちはまだ、彼女の正確な死亡推定時刻を公表していません。一課の人間しか知らない情報を、なぜあなたが知っているんですか?」
斉藤の顔から、急速に血の気が引いていった。
「……あ、いや、それは……ネットのニュースとか、噂で……」
「噂で分単位の時間は流れないよ」
柊さんは楽しげに笑い、斉藤の抱える巨大なチューバのベルをコンコンと叩いた。
「斉藤さん。さっき僕が舞台で大騒ぎを起こした時、みんな諸星さんに釘付けだった。でも君だけは違った。君の視線は、チューバから一番遠いバイオリン奏者の一団……その中にいる『誰か』をずっと探していたね」
柊さんは私の肩に手を置き、斉藤を追い詰めるように一歩踏み出した。
「誰かを愛しているなら、混乱の中でもその人を目で追うものだ。……現状、死んでいる篠原さんは除外できる。そして、新しいコンサートマスターになった今野さんを見る君の目は、恋ではなかった。……憎悪、あるいは軽蔑だ」
「違う……! 僕は……!」
「今野さんを容疑者に仕立て上げれば、手塚さんが繰り上がる。……君は、手塚さんのために篠原さんを排除し、その罪を今野さんに擦り付けようとした。……そうだろう?」
私は混乱しながらも、柊さんのロジックを整理した。
「……柊さん。でも、手塚さんが犯人だという線は?」
「彼女じゃない。財布を盗んだのが強盗に見せかけるためだとしても、現場から花束を持ち去る意味がないからだ」
柊さんは斉藤の足元を指差した。
「手塚さんは座を欲しがっていたが、彼女の顔は『栄誉』を奪いたいタイプじゃない。……だが、斉藤さん。君は違う。君にとってあの花束は、愛を告げる小道具じゃなく、不愉快な栄誉の象徴だった。そうだろう?」
柊さんは倒れたチューバを冷ややかに一瞥し、斉藤の目線に合わせて腰を落とした。
「君が心酔しているのは、そこにいる手塚さんだ。君の目には、彼女こそがコンサートマスターに相応しく、篠原さんはその座を奪っている邪魔者にしか見えていなかった。……だから君は、彼女の命だけでなく、その輝きまでも奪い去りたかった」
「……っ」
斉藤の唇が小刻みに震える。
「あの日、演奏会を終えた篠原さんは、観客や団員から賞賛と共にあの花束を受け取った。……君にはそれが許せなかったんだ。手塚さんが座るべき椅子に居座り、皆に愛される篠原久美という存在が。だから殺害した後、君は彼女の持ち物から財布を抜き取って強盗を装いながら、花束も戦利品として持ち去った。……彼女から、その日得た栄誉の証をすべて剥ぎ取るためにね」
「……何が悪いんだ」
斉藤の喉の奥から、地を這うような低い声が漏れた。
「あいつが……篠原が死ねば、今野が繰り上がる。でも今野に殺人の疑いをかければ、次こそが手塚さんの番だ。彼女はあんな女よりずっと努力していた! あいつに贈られたあのオレンジのガーベラを見るたび、吐き気がしたんだ。手塚さんへの賞賛であるべき花が、あいつの腕にあることが……っ!」
斉藤は狂信的な瞳で手塚を見つめた。だが、当の手塚は恐怖に顔を歪め、彼から逃げるように後退りした。
「……斉藤くん、あなた……私のために、久美さんを……?」
「そうだよ、手塚さん! 君が一番高い場所に立つべきなんだ。僕はただ、不当に独占されていた栄誉を、あるべき場所に戻したかっただけだ!」
身勝手な正義感。歪んだ愛が引き起こした凄惨なアンサンブル。私は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、手錠を斉藤の突き出された手首にかけた。
「……斉藤さん。篠原久美さんに対する殺人容疑で逮捕します」
ホールの舞台裏に、斉藤の乾いた笑い声と今野の嗚咽が重なり、最悪の終幕を告げた。
連行されていく斉藤の背中を見送りながら、柊さんはふっと息を吐き、ポケットに残っていた銀の髪飾りを私の手に戻した。
「……南さん。人はね、自分の愛するものの価値を証明するためなら、他人の人生を平気でゴミ箱に捨てられる。……これが、嘘で塗り固められた世界に住む住人の、唯一の真実さ」
柊さんの瞳は、解決した事件にはもう何の興味もないと言わんばかりに、冷たく夜の闇を見つめていた。私はその隣で、彼がいつか動かそうとしている「止まった時間」の重みを、改めて強く意識していた。
#オリジナルキャラクター有り