ほんの少し前のことのはずが、おぼろげな記憶となっていた。
色々なことが、あったから。
「……言われた、ました」
「ん、覚えてんなら上等だ。普段の勤務態度から今日のお前を批判する声は少ないと思うぞ。そういう強みをな、少しずつ蓄えていけばいいだろ」
突然の優しい声に、ただ驚く。
「そうでしょうか……」と疑って答えると八木は大きく頷いて、ひんやりと冷たい手のひらで、また真衣香の額に触れた。 まるで撫でるように。
「ああ、親戚のおっさん共もたまにお前の話題出すぞ。新しい総務の子は頑張ってるねとかなんとか」
八木の口から〝親戚〟というフレーズを聞き、真衣香はそういえば……と思い出す。
「八木さんは……八木食品の頃の経営陣の皆さんと親戚なんでしたっけ、忘れてました」
「何だそりゃ」と愉快そうに笑い声をあげるから、真衣香も少し笑顔になれた。
『焦らないでいい』と真衣香に言ってくれた人物は八木の他には〝彼〟だけだから、チクリと少し胸が痛くなったのだけれど。
「だって普段がサボってばっかりなんですもん」
そう言ったならコツン、といい音を響かせ小突かれてしまう。
10年ほど前に社名が変更になり、経営陣も多くが退陣した。
一族経営だった名残こそ残っているが、今では随分と近代的で自由な社風に変化したと言われる真衣香が務めるYフーズセレクト。
……だと、入社時の研修で一応の知識があるものの、深くは知らないし実際に八木から親戚の話を聞いたのは初めてだった。
わざわざ突っ込んで聞くことでもないと思っていたし、業務以外の雑談をすることも少なかったからだ。
「あー、そうかよ。勝手に言ってろ」と真衣香の声に悪態をついたあとに愚痴るように続けた。
「ったく、まあサボってばっかとか誰かさんに言われてる俺と比べてお前は真面目と素直くらいだろ、取り柄」
「……朝から顔がおかしいとか、言うし……微妙にけなされてますよね、私」
ケホケホと、軽く咳き込みながら抗議するも八木は聞こえていないかのように続けた。
「お前みたいな奴が、こうなるまで坪井は何やらかした」
急に真面目な声に変化したものだから真衣香は驚いて八木を見上げた。
額に触れる手が影となって表情がよく見えないのだが……どことなく、真衣香を見下ろす八木の表情が険しいように見える。
「お前の勘違いだか何か知らねぇけど、あいつならもうちょいうまくやれそうなもんだけどな。遊ぶにしろ捨てるにしろ」
「どういう、こと……ですか?」途切れ途切れに聞いた真衣香を観察するように眺めて、八木は更に言う。
「これまで躊躇しなかった奴がブレるとクソほど使いもんにならねぇよって話だ」
ソファの肘掛に座った八木が「ま、お前にはわからんだろ」と意地悪に笑ってペチっと何だか間抜けな音を響かせた。
撫でていてくれたはずの額を軽く叩かれたのだ。
そんな八木の動作とほぼ同時、応接室のドアが突然開かれ――
「……あ、いた、立花! 大丈夫!?」
聞こえてきた少し慌てた様子の声に、思わず身体が強張った。
ワンテンポ遅れて、それよりも少し低くなった声が同じ人物から続く。
「……と、八木さんも、いたんですね」
「噂をすれば何とやら、だな。いちゃ悪いかよ」
八木がその声の主に、やたらダルそうな声で答えている。
ドクドクとうるさいくらいに心臓が脈打って、逃げ出したいと、まるで頭に訴えているように思えた。
真衣香はドアとは逆を向いてソファへ横になっていた為、声を発する人物の姿こそ見えないが……聞き間違える訳がない。この週末、何度耳にこの声が蘇っていたことだろう。
忘れたくても聞こえて、心を抉り続け、締め付けては真衣香を捕らえて。 一度も消えてはくれなかったのだから。