約束の日になり、宏章は早々に仕事を終えて17時頃帰宅した。シャワーを済ませ、着替えをして桜那からのメールを確認する。19時頃帰宅する旨と、マンションへの入室の仕方が書かれていた。 前日に桜那から予め住所が送られて来ていたので、再度携帯でルートを確認してからバイクを走らせた。近くの駐車場にバイクを駐めてマンションの前に辿り着くと、その立派さに宏章はたじろいだ。
不慣れな様子でエントランスに入り、コンシェルジュに声を掛けた。受付を済ませてカードキーを受け取り、エレベーターで指定の階まで上がる。桜那の部屋番号を確認してインターホンを鳴らすと、「どうぞー」と言って開錠する音がしたので、「おじゃまします」とおどおどしながら入室した。
「いらっしゃーい」
桜那はすでに部屋着に着替えていた。
もこもこした素材の淡いブルーのパーカーとショートパンツのセットアップに、ロングのルームソックスを履いていた。いつものおしゃれな私服姿も可愛いらしいが、ラフな部屋着姿もまたとても似合っていて可愛いらしく、宏章はときめいた。
「上がって」
桜那は上機嫌に宏章をリビングへ通す。
宏章はリビングに入るなり、「うわ!広っ!」と驚いた。
「俺、タワーマンションなんて初めて入ったよ!」
興奮している宏章をよそに、桜那は「そう?別に普通だよ」と淡々と答えた。
「宏章ご飯まだだよね?お惣菜買って来たんだけど、足りるかな?」
テーブルにはデパ地下の彩り鮮やかなお惣菜が数種類並べてあった。「まぁ座ってよ」と言って桜那が座ったので、宏章も向かいに腰掛けた。
「こんなに用意してもらってなんか悪いね……、これ手土産」
宏章は済まなそうに言うと、紙袋に入った日本酒を桜那へ手渡した。
「わー!日本酒?嬉しい」
桜那が喜んで受け取ると、ビンのラベルに桜花と書かれているのに気付き「これなんて読むの?」と尋ねた。
「『おうか』だって。それ熊本のお酒で、実家から送って貰ったんだ。俺もまだ飲んだ事ないんだけどね」
「実家?」
「俺んち、酒屋なんだ」
「へぇ〜そうなんだ!いいね!」
桜那は初めて聞く宏章の話に、興味深々だった。
「じゃあこれは冷やしとこ」
桜那は嬉しそうに声を弾ませ、日本酒を冷蔵庫に入れると、代わりにビールとワインを持ってきた。
「あ、俺バイクで来たからノンアルかお茶とかある?」宏章が尋ねると、「泊まってけばいいじゃん」と桜那は平然と言ってのけた。
宏章は驚いて、「いや、そういうわけにはいかないだろ!」と断ったが、「客間ならあるから安心して」とあっさり言われてしまった。そういう問題じゃなくて、俺の理性の問題なんだけどな……と思いつつも、まあ客間があれば大丈夫かなと自分に言い聞かせた。
「じゃ、とりあえずお疲れ様!」
二人は元気よく乾杯すると、桜那はぐびぐびとビールを飲み干した。
宏章は仕事帰りでお腹を空かせていたので、ビールもそこそこにお惣菜に手を付けた。桜那は宏章が食べる姿を、しばしの間ジーっと眺めていた。桜那の視線に気付くと、宏章は手を止めた。
「何?そんなに見られると食べづらいんだけど……」
「ああ!ごめんごめん!宏章の食べ方が綺麗だからさ。つい眺めちゃった」
「そうかな?」
「うん、いいところのおぼっちゃまみたいだよ」
「いや、俺んち酒屋だし。しかも小さな。親父もお袋も普通だよ。だけど両親とも食事のマナーだけはうるさくて、厳しく躾けられたからかな?それ以外はなんも言われなかったけどね」
「そうだったね!いいお父さんとお母さんじゃん」
桜那はあははと笑って、二本目のビールを開けた。「もっと宏章の事知りたいな」と桜那がいきなり言うので、宏章は心臓がドキッとした。
「俺なんか平凡で普通すぎて、知っても何にも面白くないと思うけど……」
宏章が自虐気味に苦笑いで答えると、桜那は優しく語りかけた。
「そんな事ないよ。それに宏章は普通って言うけど、それって素敵な事じゃない。普通でいるって、実は一番難しくて幸せな事だから」
宏章はハッとした。
自分も桜那の事がもっと知りたいと思っていた。桜那の家族や過去の事……そして、どうしてAV女優になったのかも。
デビューしてすぐの頃はアイドルグループにいたという事は知っていたが、なぜAVに転向したのか。
下衆な週刊誌の噂で、ちらっと恋愛がらみのスキャンダルがあったらしいと言う事は知っていたが、それもあくまで噂レベルの話だった。普通に考えれば、桜那のルックスなら今流行りのアイドルグループが束になっても勝てないくらいのレベルなのに。宏章は桜那の事など何ひとつ知らないのだ。そんな事を考えていると、「宏章はどうして東京に出て来たの?」と桜那が尋ねてきた。
宏章は我に返って語り出した。
「ああ、うん。俺の実家って、熊本のK町ってとこなんだけど。熊本市から車で30分くらいの所にあって、工業団地とか住宅街ばっかのとこでさ。住むのにはいい場所なんだけどね。だけどそれだけの所で、俺はそれが嫌で。高校卒業したら実家継いで、ずっと一生ここから出ないで過ごすのかって思ったら、急に自分がすごくつまんない奴に思えてきて……、それで高校卒業と同時に東京へ出てきたんだ。親は大学進学するならばって言ったんだけど、俺勉強嫌いだったし。半ば強引にこっち出てきた感じで……。こっちの大学進学した奴にくっついてって、最初はそいつの家に住まわしてもらって仕事探して……」
宏章は尚も淡々と話し続ける。
「俺、平凡な自分がコンプレックスで。昔からそうなんだけど、何やっても中途半端っていうか……。割と器用だったから何でもそこそこ出来たんだけど、一番になった事って一度もなくて。夢中になれるものもなかったし。でも東京に出てきたら何か変わるかもって思ってたんだけど……。そんな甘い考えじゃ通用しなかったね。周りはみんな、ちゃんと夢とか目標とか持ってる奴らばっかりで。すごい才能もあって……。駿なんて初めて会った時からオーラも凄いし。やりたい事も見つかんなかったし、結局俺は何にもなれないままだったよ」
宏章は情けなさげに笑って、ため息をついた。
「それでもギターは好きだったんじゃないの?」
桜那はビール片手に宏章へ尋ねた。
「ああ、うん。俺高校の時、よく洋楽聞いててさ。それでギターやるようになったんだ。ギターは今までで一番ハマったかな。東京に出てきて、一番最初に働いたのがライブハウスなんだ。ギターそこそこ弾けたから、そのうち穴埋めでステージ上がる様になって。初めのうちは夢中になって、俺これでいけるかもとか思ったりもしたんだけど……。だけどやっぱりデビューする奴って全然違くて。才能もオーラもそうなんだけど、何より情熱っていうか……、熱量が半端なくてさ。俺はもともとプロになりたかった訳じゃなかったし。それに当てられたら急に熱が冷めてきて、ライブハウスも辞めたんだ。で、今は酒屋の配送という、実家とたいして変わんない仕事してんだけど」
宏章は笑いながらビールを口にすると、穏やかな表情で両親への想いを語った。
「でもあの頃はつまんない仕事だって、実家継ぐなんて嫌だって思ってたけど……。俺も働く様になって、両親の大変さが分かったよ。ましてや自営だったからさ。今は素直に尊敬してるし感謝してる。つまんない仕事だなんて思ってないよ」
桜那は静かに宏章の話を聞き入っていた。
宏章は手元のビールに視線を落とした後、意を決した様に顔を上げて、桜那へ尋ねた。
「桜那は……、どうしてAV女優になったんだ?」
桜那はピクっと反応して、目を見開いた。その表情を見て、宏章はしまった!と焦った。
「あ、いや……、俺って桜那の事何も知らないから……。その、AV女優がダメだとかそういう事じゃなくて……」
……だからって何でストレートに聞いたんだ!
宏章は桜那が自分に心を許しているので、オブラートに包む事もせずについ尋ねてしまった。
宏章は墓穴を掘ってしまったと青ざめ、気まずそうにオロオロしていると、桜那は虚な目をして視線をずらし、少し考え込んでからゆっくり話し始めた。
2
「私最初はグラドルだったの。デビューしたての頃。もともとアイドルか女優になりたくて。子どもの頃からの夢でね。同じ事務所でグラドルやってた子とユニット組まされて。三人組でさ。全く売れなかったけど」
「あ!それは知ってるよ。確か一年くらいで自然消滅したんだよね?」
「そう。だってさ、あの子達全然やる気ないんだもん!歌も踊りもヘッタクソなくせに、全然練習しないし文句ばっかりで。桜那にはついていけないとか言って!それで仲違いして空中分解。まあ結局、その子達もいつの間にか事務所辞めて消えたけどね」
桜那は呆れ顔で、うんざりしながら思い出していた。宏章は桜那らしいな、と少し苦笑いした。
桜那は少し黙ったあと、俯いてまた語り出した。
「アイドルの長谷川リュウっているでしょ?」
長谷川リュウといえば、業界最大手の事務所に所属するアイドルグループの一員だ。
歌番組やドラマ、バラエティなどほぼ毎日何かしらで見かけるので、知らない人の方が珍しい程の知名度を誇っている。芸能人に疎い宏章ですら、ちゃんと顔と名前が一致するほどだ。
「当時付き合ってたの」
宏章は驚きから、目を見開いた。
「一度だけバラエティで一緒になって、向こうから言い寄られてね。私も若かったから、あのハセリュウにって夢中になっちゃって……。かなり女慣れしてて、女性の扱いも上手くてさ。でも今思えば私も本気で好きだった訳じゃなくて、日本一のアイドルと付き合ってるんだっていう優越感というか……。一種のステイタスとか、周囲に対するマウントみたいなものだったのかもね」
桜那は苦い思い出にため息をついた。
「ハセリュウって盗撮癖があって……、よく最中の写真とか動画撮ってて。もちろん嫌だって言ったんだけど、隠れて撮られたりもして。私も逆らえなくて撮らせた事もあったんだけど……」
桜那は俯いて、ぐっと拳を強く握りしめた。
「本当に馬鹿な事をした……、軽率だった……」
宏章は泣き出しそうな桜那に気付いて立ち上がった。
「桜那!もう無理に話さなくても大丈夫だよ」
桜那は顔を上げた。心配そうに自分を見つめる宏章を見ると、気持ちが少し和らいだ。
「……大丈夫。ありがと」
桜那が困り顔で笑うと、宏章はまた腰掛けて静かに桜那の話に耳を傾けた。
「それでね、どういう訳だかその写真と動画が流出しちゃって。あいつほかにも沢山女がいたから、多分そのうちの一人が振られた腹いせとかでばら撒いたんだと思うんだけど……、向こうの事務所の社長がもう大激怒で。あいつ向こうの女社長のお気に入りだったからさ。それで圧力で何とか記事はもみ消せたんだけど、それはもうこっちに怒り心頭で……。向こうの事務所のタレントとの共演完全NGになっちゃって……。私も決まりかけてたCMとかドラマとか全部降板して、違約金がざっと数千万」
「数千万……」
宏章は驚きから絶句した。
「これでも少ない方だよ。私はまだ売り出す前だったから知名度も低かったしね。ただ当時の私にはかなりの大金で、とても払える額じゃなかったけど。向こうの事務所のタレントと完全共演NGになっちゃって、ゴールデンタイムのバラエティとかドラマは絶望的だし。それでAVの話が持ち上がったってわけ」
宏章は苦虫を噛み潰したような顔で、桜那の話に耳を傾けていた。桜那が受けた酷い仕打ちを思うと、ただただ腸が煮え返った。そしてその理不尽さに、吐き気さえ催した。その過去に対して、自分にはどうする事も出来ない事に苛立ちを覚えたが、宏章はこのやり場のない怒りを、何も出来ずにただ黙って堪えるしかなかったのだ。
「そんな顔しないで、もう終わった事だから。私も人を見る目がなかったんだし」
桜那が悲しそうに笑うと、宏章は我に返ってごめん……と呟いた。
「辛い事思い出させて悪かった。もう話さなくて大丈夫だよ……」
宏章は桜那を気遣ったが、桜那は「ううん、平気。私も何でか宏章にはつい話しすぎちゃって……、こんな話聞かされても反応に困るよね」と済まなそうに言った。
「いや!違うんだ。俺はただ自分に対して苛立ってるだけだから……、俺にはどうにもしてやれないから」
桜那はふっと息を吐くと、「ありがとう。宏章は優しいね」と笑った。
……優しくなんかない。
宏章は様々な不快な感情が渦巻いていた。
嫉妬や怒り、やるせなさや無力感。訳の分からない感情に支配されて、心の底からそいつを殺してやりたいと思った。
だけど一番許せなかったのは、そんな経緯があった事も知らずに、脳天気に桜那のファンだった自分自身だ。
宏章は心を鎮めようと、ビールをぐいっと一気に流し込んだ。
3
「でもね、AV出演を決めたのは私自身なの」
桜那はビールに口をつけて、再び語り出した。
「リュウとは結局、それ以降音信不通でね。でもあいつその後も何事もなく活動しててさ。ちょうどゴールデンタイムのドラマも決まって、何食わぬ顔で番宣とか出てて……、それ見てたら猛烈に腹が立って。あんな奴の為に、私の夢まで潰されてたまるかって思ったの。どうにかして見返してやりたくて、いっそAVの世界でトップになってやる!って思い立って。むしろマイナスからのスタートなんて上等くらいに思っててさ。そこからまた這い上がってやるって思ったの。それなら違約金もすぐ返せるしってね。もちろん簡単にはいかない事は分かってたよ。でも……、タレントの秦野侑李って知ってる?」
桜那は唐突に、宏章へ尋ねた。
「ああ、知ってるよ。元AV女優の。バラエティとか情報番組によく出てるよね?」
「うん、侑李さんね、事務所の先輩なの」
秦野侑李は90年代に一世風靡した元AV女優だ。歯に衣着せぬ物言いがウケてバラエティによく出ているが、コメント力も高く、数多くの情報番組に出演していた。数多のAV女優が人知れずひっそりと引退していく中で、AV女優からタレントに転身して成功した、非常に稀な存在だ。
「侑李さんてね、バラエティだとああいうざっくばらんでゆるーいキャラなんだけど、実際はかなり仕事に厳しい人で。絶対に現場には一番に来るし、礼儀正しいし、常日頃情報収集とかも欠かさないかなりストイックな人なの。私が一番尊敬してる人。私も最初は厳しい事言われてたんだけど、だんだんと認めてくれて……。いつの間にか気にかけてくれる様になって」
桜那はふふっと笑った。
「私のAV出演の話が持ち上がった時もね、違約金は自分が何とかするからって社長に掛け合ってくれてね。私に考え直せって必死に説得してくれて……、事務所辞めて地元に帰れって。違約金は地道に働いて、少しずつ返してくれればいいからって……」
桜那は目を閉じて、侑李に説得された時の事を回想した。
誰にも相談せず決断して、契約書に押印して社長室から出た時の事。
侑李は必死の形相で桜那を問い詰めた。
「AVに出演するって事が、どういう事だか分かってるの⁈お願いだから、考え直して!」
「侑李さん、もう決めたんです。私絶対AVでトップ取って、侑李さんみたいにまた表舞台に返り咲いてみせます。侑李さんの事、すぐに越えて見せますから」
桜那の決意は固く、その意志の強い目に侑李は思わず怯んでしまった。
桜那は目を開いて、宏章へ再び語りかけた。
「でも私、その時侑李さんみたいにまた表舞台で成功するって自分に誓ったの。侑李さんを越えてみせるって、本人の前で啖呵切ってね。私のあまりの気迫に侑李さんも折れて。とは言っても、やっぱり最初の撮影の時はうんと怖くて……、訳も分からないままあっという間に終わったんだけど。家に帰ったら震えは止まらないし、涙は出てくるしで。泣きすぎて吐いちゃって……、でも吐くほど泣いたらなんだか吹っ切れて。それっきりもう泣かなくなったけど」
桜那はふーっと長く息を吐いて、ビールをぐびぐびと飲み干した。
「もうそんな顔しないで。経緯はどうあれ、今はこの仕事にやり甲斐を感じてるの」
桜那は宏章がずっと顔を顰めて黙り込んでいるので、まるで子どもを宥めるかのように話し始めた。
「私も初めはAVなんてって思ってたんだけど……、実際現場に入ったらもうみんなプロ意識が高くて圧倒されちゃって。監督さんとか照明さんとか職人みたいで……。AVだろうと映画だろうと、どの現場もいい作品を作ろうっていう熱量は変わらないんだって感じたの。そこからは私も、どの現場でも一切手は抜かないって誓ったんだ」
桜那は仕事への想いを切々と語った。
「それに私の場合は、社長がかなり売り出し方にこだわってね。綺麗な見せ方で売ろうって言って。内容もそうだけど、一緒に組む監督さんや男優もかなり吟味してくれたから。社長は何てったって、侑李さんを今の地位まで押し上げた人だしね」
桜那の事務所の社長は、侑李がAV女優だった頃のマネージャーだった。今や侑李はバラエティや情報番組に引っ張りだこで、押しも押されもせぬ人気を誇っているが、その影には社長の確かな手腕があった。
「それにね、その件以来、侑李さんがいつも私のこと守ってくれて。あいつはヤバいから近づくなとか、ここには顔出すなとか色々教えてくれて……。私、侑李さんがいなかったら闇堕ちして、今頃風俗に沈められてたかもね」
桜那は小さくため息をついて微笑した。
宏章はずっと押し黙ったまま桜那の話に耳を傾けていた。そして桜那が一寸先は闇という、いかに過酷な世界で生きているのかを痛感した。宏章は平凡な自分にコンプレックスを感じていた事を恥じた。桜那の言う「普通の幸せ」の意味をようやく理解したのだ。
自分にとっての当たり前は、他人には決してそうではないと言うことも。
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