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#🌀🌧️⚡️
低気圧
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天灯共同医療福祉院には、いくつもの訓練区画がある。
人型化したばかりの霊獣が、衣や厠の使い方を覚える場所。
由来生態に合わせて、人型での暮らし方を学ぶ場所。
そして、すでに一定の段階を修了した霊獣たちが、任務に必要な戦術や香の扱いを学ぶ場所もある。
その日の午後。
霊獣戦術訓練区画。
訓練場の中央では、大型の霊獣が最後の一撃を放ったところだった。
地を蹴る音。空気が唸る音。それから、何かが壁へ叩きつけられる、鈍い音。
「――受けた」
教官役の仙人が、埃の中から低く言った。
右肩を軸に、身体を半回転させて着地している。姿勢は崩れていない。
「受けた、じゃない」
同僚が霊獣を落ち着かせながら声を飛ばす。
「今の避けられただろ」
「受け身の確認だ」
「壁がへこむほどの受け身か」
「壁は施設管理の管轄だ。俺の管轄じゃない」
「肩が動いてないぞ」
「動いている」
教官は右肩を軽く回してみせた。
痛みはある。
だが腕は動く。歩行にも問題はない。
このまま記録を提出して戻ればいい。
訓練が終わり、二人は霊獣戦術訓練区画の指導を終え、天灯院の共用廊下を歩いていた。
「今日は随分やられたな」
「訓練だからな」
「教官が訓練生に吹き飛ばされてどうする」
「受けてやっただけだ」
「壁まで?」
「受け身の確認だ」
「壁がへこんでたぞ」
「施設管理へ報告しておく」
「お前の肩も報告した方がいいんじゃないか」
「この程度なら必要ない」
教官はもう一度、右肩を軽く回した。
同僚がそれを横目で見て、何か言いかけて、やめた。
言っても無駄だと分かっているからだ。
この男は、腕が上がるうちは「大丈夫」と言い続ける。上がらなくなってから、ようやく「少し」と言う。それが何年も変わらない。
隣を歩いていた同僚が、不意に足を止めた。
「おい」
「何だ」
「漏れてるぞ」
その声は、思ったより廊下へ響いた。
「えっ!?」
二人が振り返る。
少し先に、人型化準備区域の入口があった。
区域内へ入れる者は限られている。二人にも用事はなく、ただ共用廊下を通りかかったにすぎない。
だが入口付近にいた職員が、ものすごい勢いでこちらを見た。
「誰です!? 厠訓練中の子!?」
「俺だ」
教官が答える。
「…………え?」
「俺だ」
職員は教官を見た。
下衣を見る。
床を見る。
もう一度、教官を見る。
何も起きていない。
その代わり、右肩の衣が少し裂けていた。
裂け目から、白く淡い霧のような香が、細く立ち昇っている。
「ああ……」
職員が胸を撫で下ろした。
「なんだ、香か……」
教官の眉が動いた。
「なんだ、とは何だ」
「え?」
「いや」
「すみません。今、区域内で人型化直後の霊獣が厠訓練をしているので。『漏れてる』だけ聞こえたものですから、誰か間に合わなかったのかと」
「そうか」
「びっくりしました……」
職員は本当に安心した顔をしていた。
事情は分かる。
人型化直後は、獣だった頃とは身体感覚が違う。
排泄の予兆そのものを、うまく捉えられない者もいる。間に合わなかった時には、何より先に本人の羞恥を守らなければならない。
職員が焦った理由は理解できる。
理解できるのだが。
「香散なら、診療区画まで歩けそうですね」
「……歩ける」
「よかったです。では、お大事に」
「ああ」
職員は準備区域へ戻っていった。
教官は、その背中を見送った。
「…………」
「行くぞ」
同僚が歩き出す。
「待て」
「何だ」
「今のは」
「何が」
「いや……いい」
「なら行くぞ」
二人は再び歩き出した。
右肩から、淡い香がふわふわと散っていく。
数歩進んだところで、教官が口を開いた。
「『お大事に』は」
「ん?」
「心配に入ると思うか」
同僚が足を止めた。
「お前、何を気にしてるんだ」
「気にしていない」
「今、自分から聞いただろ」
「確認しただけだ」
「何を」
「……言葉の意味を」
「面倒くさいな」
「うるさい」
その時だった。
背後で、準備区域の扉が開いた。
「職員さん……」
小さな声。
二人が振り返る。
入口から、人型化して間もないらしい鹿由来の霊獣が顔を出していた。
耳が伏せている。
脚も落ち着かない。
先ほどの職員がすぐに近づいた。
「どうしました?」
「……漏れそう」
職員の表情が変わった。
「分かりました。ちゃんと言えましたね」
声は穏やかだった。
「まだ大丈夫です。急がなくていいですよ。こちらへ行きましょう」
鹿由来霊獣が小さく頷く。
職員は身体へ触れず、少し前を歩いて進路を示した。
「大丈夫です。間に合いますからね」
鹿由来霊獣の耳が、少しだけ持ち上がった。
まだ完全には安心していない。だが、さっきよりは、脚の震えが小さくなっている。
二人が廊下の向こうへ消えていく。
教官は、その光景を黙って見ていた。
声のかけ方。歩く速さ。相手を急かさない間。
どれも、何気ないようでいて、何気なくない。
「…………」
「見るな」
「見ていない」
「ものすごく見てたぞ」
「たまたま視界に入っただけだ」
同僚が教官の右肩を見る。
相変わらず香は散っている。
「行くぞ」
「……あの者には」
「何だ」
「大丈夫かと聞いたな」
「人型化したばかりだからな」
「俺も負傷している」
「知ってる」
「目視できる程度には香も散っている」
「だから診療区画へ連れていってる」
「俺には一度も『大丈夫か』と聞いていない」
「お前、自分で『この程度なら必要ない』って言っただろ」
「それとこれは別だ」
「何が違うんだ」
「知らん」
「知らんのか」
教官は不機嫌そうに歩き出した。
同僚が後ろからついていく。
「お前、まさか心配してほしいのか」
「違う」
「即答だな」
「俺は戦術教官だぞ」
「知ってる」
「訓練生の前でこの程度の負傷を大げさに扱えるか」
「今、訓練生はいないぞ」
「だから何だ」
「心配してほしいなら今が好機だ」
「いらん」
「そうか」
「……ただ」
「ただ?」
「普通、肩から香を散らしている者を見たら、もう少し何かあるだろう」
「面倒くさいな、お前」
「二度言うな」
コメント
1件
あっ、この話めっちゃ好きです……!「漏れてる」の誤解が笑えるし、教官が「心配してほしい」って言えない不器用さがもう……可愛いんですけど🥀✨ 肩から香が散ってるのに「大丈夫か」って聞かれないのもやもやしてるの、分かるよって思いました。最後の鹿ちゃんの子がちゃんと言えたところ、ほっとしました。