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#🌀🌧️⚡️
低気圧
42
2,687
「軽度の香散ですね」
診療区画。
景陽は教官の肩を確認すると、淡々とそう告げた。
裂けた衣は肩から外され、損傷部が露わになっている。
人間の傷のように血は流れていない。
代わりに、傷んだ香脈の周囲から淡い香が絶えず散っていた。
「香脈の表層損傷です。深部までは達していません」
「そうか」
「処置すればすぐ収まります」
「なら問題ないな」
「問題がないとは言っていません」
景陽が医療香を指先へ集める。
「いつ負傷しました?」
「戦術訓練中だ」
「何刻前です?」
教官が答える。
景陽の手が止まった。
しばらく、何も言わなかった。
それが、何かを言われるより先に、教官の背筋を少し縮こまらせた。
「その間、何も処置を?」
「必要ないと思った」
「香散していたのに?」
「腕は動いた」
「腕が動くことと、治療が不要であることは別です」
「…………」
横にいた同僚が、何か言いたそうな顔をした。
教官が睨む。
「何だ」
「いや。普段、お前が訓練生に言ってることと同じだと思って」
「黙れ」
景陽が二人を見比べる。
「普段は、どのように指導しているのです?」
「景陽、それは今必要な質問か」
「参考までに」
同僚が答えた。
「負傷を隠すな。異常があれば申告しろ。撤退判断も戦術のうちだ、と」
景陽の視線が教官へ戻った。
「模範的ですね」
「…………」
「教える内容は」
「景陽」
「はい」
「処置を頼む」
「そのつもりです」
医療香が損傷部へ重ねられる。
散っていた白い香が、少しずつ薄くなっていった。
「痛みはありますか」
教官が瞬いた。
「……何だ」
「痛みです。ありますか」
「この程度なら――」
いつもの言葉が出かける。
だが。
ふと、先ほどの鹿由来霊獣を思い出した。
――大丈夫です。間に合いますからね。
あの一言のために、鹿由来霊獣の耳は少しだけ持ち上がった。
自分にはまだ、そういう一言が向けられていない。
教官は少し黙った。
「……ある」
同僚が横を見る。
「少し、痛む」
「分かりました」
景陽は何でもないことのように頷いた。
「では鎮痛も入れます。腕を上げた時と、下ろした時ではどちらが強いですか」
「上げた時だ」
「痺れは?」
「ない」
「熱感は?」
「少し」
「分かりました。無理に動かさないでください」
景陽の指先が香脈の流れを追っていく。
先ほどまで頑なだった教官が、聞かれたことへ一つずつ答えていく。
同僚は黙ってそれを見ていた。
やがて、肩から散っていた香が完全に止まった。
「これで大丈夫です」
景陽が手を離す。
「ただし、今日はもう戦術訓練へ戻らないでください」
「記録が残っている」
「他の方へ引き継いでください」
「書類くらいなら――」
「駄目です」
穏やかな声だった。
だが、譲る気がないことだけはよく分かった。
「軽度だったから、この程度で済んだんです。自分で歩けるからといって、負傷を放置していい理由にはなりません」
「…………」
「次からは、香散を確認した時点で診療を受けてください」
「分かった」
「本当に?」
「分かったと言っている」
「なら結構です」
景陽は記録板へ処置内容を書き込み、それからもう一度、教官の肩を見た。
「今夜、痛みが強くなるようなら戻ってきてください。香散が再発した場合も同様です」
「ああ」
「無理はしないでくださいね」
教官が黙った。
「……どうしました?」
「いや」
ほんの少しだけ、表情が緩んだ。
「分かった」
*
診療区画を出る。
二人で廊下を歩く。
しばらくして、同僚が口を開いた。
「よかったな」
「何がだ」
「心配してもらえて」
教官の足が止まった。
「違う」
「何が」
「あれは医療判断だ」
「痛みも聞いてもらったな」
「診察だからな」
「無理するなとも言われた」
「医師だから当然だ」
「嬉しそうだったぞ」
「どこがだ」
「『少し痛む』って妙に素直に答えてた」
「聞かれたから答えただけだ」
「普段のお前なら『問題ない』で終わらせるだろ」
「…………」
「鹿には心配したのに、俺には誰も、って顔してたくせに」
「していない」
「肩から漏らしながら」
「その言い方をやめろ」
低い声が廊下へ響いた。
少し先。
準備区域の入口にいた職員が、びくりとこちらを見る。
「また誰か漏れたんですか!?」
「違う!」
教官の声が、天灯院の廊下いっぱいに響いた。
同僚がとうとう吹き出した。
教官は額へ手を当てる。
「……もう二度と、その言い方をするな」
「香が漏れてたのは事実だろ」
「正式名称を使え」
「香散?」
「そうだ」
「分かった」
同僚は素直に頷いた。
そして数歩歩いてから、教官の肩を見る。
「もう漏れてないな」
「お前」
しばらく無言で歩いた後、同僚がぽつりと言った。
「今度は、もう少し早く言えよ」
「何をだ」
「痛いって」
教官は答えなかった。
答えない代わりに、歩幅を少しだけ緩めた。
同僚もそれに合わせた。
天灯院では今日も、さまざまなものが人の言葉へ翻訳されている。
獣だった頃の身体感覚。
人型になって初めて知る羞恥。
痛みを伝える方法。
助けを求める方法。
そして――。
「漏れてるぞ」
その一言が何を意味するのかも、できれば相手に合わせて翻訳した方がいい。
少なくとも、人型化準備区域の近くでは。
コメント
1件
うわああ第25話…!!景陽、教官に「本当に?」って念押しするところがもうツボすぎる😭💕 あの「分かった」って言わせた後の穏やかな圧、先生すごすぎるよ…。そして「痛いって言えよ」からの無言で歩幅緩める教官、実はめっちゃ素直じゃん!?ってキュン死にした…同僚のツッコミも最高で、最後の「漏れてるぞ」の翻訳の話、めちゃエモかったです…!天灯院の空気感、好きすぎる🌸