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「ご乗車ありがとうございます」
巨躯のタクシーの運転手が、暗殺者を丁重に迎えた。
「東京まで……」
「東京? あ、あの、あの東京ですか?」
「あ、いえ……。東京まで行けるバスに乗ってみようと思いまして」
「ああ、京都駅の八条口バス乗り場ですね。わかりました」
今回の旅行を通じて、暗殺者は多くのことを学んだ。
その中心こそが「平凡」。
これからすべての勇信が人目につかず生きていくには、平凡である必要があった。そして平凡であるためにはどうすればいいのか多くを学んだ。
今後キャプテンに代わって全員の舵を取るには、「学び」はとても重要だった。
「一度くらいはバスに乗ってみるべきか」
短かった休息も、終わりへと近づいていた。
すでに十分な覚悟は備わった。
しそね町に戻れば、言葉では表せないほどの残忍な時間になるだろう。
ここで見た美しい自然とは違い、血と臓物の匂いがする凄惨な光景が待っているはずだ。
「ここで大丈夫です」
タクシーを降りて駅には入らずに、駅前にある商店街に立ち寄った。
「平凡」をより身近なものにするためだった。
「お兄さん、ちょっと寄ってかん?」
商店街に入ると、多くの商人たちが声をかけてきた。
これまでキャプテンとして人を避けてきたため、他人との接触はやはり緊張してしまう。それでも徐々に人間にも慣れつつあった。
昨日のあの女性……。
彼女がいたからこそ、俺は平凡な人間として商店街を歩いている。
脳裏には、あの女のあえぎ声と柔らかな胸が浮かんでいた。しかし商店街を覆う食べ物の匂いが鼻を突き、女性バーテンダーの妖艶な裸体は頭から離れてしまった。
ブラックルシアンではなく、スズメの串焼きが暗殺者を呼んでいた。
「さあさあ、お兄さん。一度食べてみてや。めちゃくちゃおいしいで」
テレビで見たことのある典型的な商店街の姿だった。
ちょうど空腹を自覚していたため何か食べようとしたが、財閥息子にとって商店街に積まれた食材は、衛生面での不安を抱えさせるに十分だった。
……ダメだ、まだ無理だ。
これまで育った環境が、勇信の足を縛った。
平凡を身に着けようとするが、どうしても食べ歩きという未知の世界を楽しむには至っていない。
暗殺者は炙りタコを見つめたまま悩み続けた。
そして結局商店街を去った。
商店街の匂いが消えると、突然暗殺者は奇妙な感覚にとらわれた。
「なんだ……? さっきのあの店の近くで」
市民でにぎわう商店街の中。
偶然前を通り過ぎたひとりの人間。
「あれは、まさか!」
暗殺者はすばやく体を反転させ、再び商店街へと入っていった。
「いや、そんなはずが!」
記憶をひとつずつ頼りながら、さきほど通ったルートを逆走していく。
食べ物の匂いと、人々の熱気。
その中にあった何か……。
絶対に逃してはならない重要な場面があったはず!
暗殺者は路面店が並ぶ中央通りに立ち止まり、エビを焼く店員に声をかけた。
「すいません。さっきこのあたりに男がいませんでしたか? 身長180ほどで、優しそうな目をした男を」
「いえ、見かけんかったなぁ。それやったらうちのエビ串美味しいから、食べながら待ったらいいんと違う?」
「ああ、すいません。失礼します」
暗殺者は店から逃げ、商店街を手当たり次第探してみた。
記憶の片隅に残る、ひとりの男の姿。
「そんなはずがない。だが幻想なはずはない」
自らの記憶を疑いながらも、記憶を完全には否定できなかった。
スズメの串焼きを越え、抹茶のわらび餅を通り、暗殺者はひたすら商店街を走り回った。
「見つけた。あの男!」
サングラスをかけた男が商店街の出口へと歩いている。
白いTシャツとジーンズ。
ごく普通の身なりの男だった。
男のうしろ姿が見えると、暗殺者は足を止めてゆっくりとついていく。
男は慣れた様子で、完全に商店街の風景に溶け込んでいる。
すぐに声をかけてみたかった。
ただなぜ男がここにいて、何をしているのかをまずは確認する必要があった。
商店街を出た男は果物屋をしばらく見物し、隣にある小さなスーパーに入っていった。
暗殺者はスーパーから10メートルほどの距離の電柱に隠れて、男が出てくるのを待った。
男がコーラを1本もって外に出てきた。
正面に男が見えたことで、暗殺者の鼓動が一気に躍動する。
サングラスをかけているため顔全体は見えなかったが、彼に違いなかった。
暗殺者はもう黙っていられず、男に近づいていく。
暗殺者の存在に気付いた男は、その瞬間大きく口を開け、突如方向を変えて逃亡をはじめた。
「おい、待て!」
暗殺者はすぐに男を追った。
多くの店が立ち並ぶ駅前を離れ、徐々に住宅街へと入っていく。
逃げる男の後ろ姿や、走り方までもが記憶と一致した。
何よりも目を合わせた瞬間に逃げ出すこと自体が、自分を知っているという証拠になる。
「逃げるな! 待つんだ!」
いくら暗殺者が叫んでも、男は足をとめなかった。
男は徐々に狭い路地へと入り、暗殺者もその後を追った。
「くそっ!」
路地の先は行き止まりになっていた。
男が立ちはだかる壁を見つめ、静かに立っている。
暗殺者は荒い息を整えながら、男へと近づいていく。
男は肩で息をしたまま身を翻し、暗殺者の方へと振り返った。
「どうしてこんなところにいるんだ……」
暗殺者の質問に、男は反応しなかった。
「もう一度言う。どうしてこんなところにいるのか聞いてるんだ……勇太兄さん!」