古くからの友人に初代聖王ペジオを観察してきて欲しいと請われ、ついでみたいな気持ちで実行した結城夫妻の結婚披露宴観察であったが…… 思いがけず有用な情報を得る事が出来た。
望外の幸運だと言えよう。
しばしば人生を装飾織物のタペストリーに例える向きがあるが、当然なのかもしれないな。
描かれた対象の図柄として人の目に触れるのは横糸である。
ピカソのゲルニカでもラファエロのカルトンでも、祇園祭の曳山(ひきやま)に飾られるトロイア戦争でも同じだ。
織り始めから全ての横糸が順序通り確実に織り続けられていないと望んだ作品にはならない。
それを以って、人生の華やかな場面に至る過程に、不毛に過ごしたり、不遇を嘆いたり、停滞したり闘病したりしていた辛い時期を指して、
『それもあなたの人生というタペストリーの重要な部分なんだよ』
と表現する事が多い。
今回私、観察者がこの場面には一切重要性を感じていなかったが、結果は私と私の仲間達が望む答えに辿り着く為に、必要不可欠な情報を得たのである。
やはり、人生を織り成す横糸は、どれ一本足りなくても、多くてもそこに描かれた真実を描き出す事は出来ないのであろう。
さらには、決して表に出る事は無い縦糸も、確かに存在しタペストリーをタペストリーたらしめている事は説明するまでも無い事実だ。
寧(むし)ろ、裏方である縦糸の登場によって初めて、横糸は美しい絵柄を描き出し始めるのである。
馬鹿の状態で復活したオルクスが登場したあの日、私は茶糖コユキの観察を開始した。
それから三回に及ぶ観察は、私の父や母、周囲の優しくも厳しい、懐かしい面々が語って聞かせてくれた、ターニングポイントと思われる場面を元に選び出した時間であった。
しかし、一見派手で急転直下の物語だけがコユキの人生では無論ない、当然である。
コユキの物語をタペストリーで織り出す時、BLと編み物、ネットサーフィンやオンラインゲームにのめり込んだ期間が無かったら、彼女の人生は全く違った物になっていただろう。
善悪も同様だ、フィギュアが嫌いな善悪では、今回の観察と違った結果となった筈である。
つまり、飽食に明け暮れた事も、お寺の修行に精を出した事も、二人にとって大切な横糸だったのだ。
そんな二人の前に登場した面々の、コユキと善悪に出会う前の人生も、なくてはならない物だと言えるだろう。
二人の絵をタペストリーに描く時、彼等の事は表に出てくる事はない、よしんば登場したとしても二人に関わる場面が重要で作者の興味を引いた一瞬に過ぎないのは想像に易い。
しかし、彼等の人生の積み重ね、それもまたコユキ達を描くのに必要不可欠なピース、謂わば縦糸であろう。
馬糸(ばいと)信也(しんや)がストーカーだと勘違いされていなければ、民生(たみお)衛(まもる)はコユキの電話を無碍(むげ)にせず駆けつけてくれただろう、コユキが幸福寺を訪ねる事は無かったかもしれない。
同様に秋沢明の父がデバガメの末に悲惨な死を迎えなければ、無理して秋日影(あきひかげ)を出荷しなくても良かっただろう、モラクスの依り代は変わりコユキと明、辻井ちゃんとの出会いも無かっただろうし、新型コロナウィルスが蔓延せずに大人しかったら、カバのジローとユイがパズスやラマシュトゥに見初められる事は無かったのだ。
お判りだろうか?
彼等曰く『新ガタコロナ』の猛威に心を砕いていなかったとしたら、コユキが長短(ナガチカ)少年を助け、その結果、光影の信頼を得る事は無かったのである。
私は今回の一連の観察と、この披露宴の観察を通して、はっきりと言い切れる。
人はすべからず社会や世界と繋がり合っているのだ、と。
真面目に誠実に日々を過ごしていても、反社会的な行いをしてどこかに収監されていても、病気で入院や療養中でも、家族にも会わず部屋で一人きりでいたとしても……
大リーグで活躍するスター選手や、オリンピアンやメダリスト、大人気のアーティストやお金持ちのあの人、インフルエンサーにカリスマ達……
彼等を描く豪華で美しいタペストリーの、裏に隠れた縦糸は無名の多くの人々なのだ。
アイドルをアイドルたらしめる最大の功労者、縦糸は言うまでも無くファンの存在なのである。
無論、オーディエンスの皆さんも世界中で、美しく描かれるタペストリーの一部である。
不肖、私、観察者もその一人であろう、いや、ありたいと願う。
優秀な面々が私の世界を滅びから救う、その偉業のタペストリーに係る、一本の縦糸であれる様、精一杯頑張っていく事としよう。
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