以前とはまた違った恐怖が、堀口ミノルを襲った。
最初は自殺するためだった。
今回は死体を捨てるためだ。
断崖絶壁。
堀口は再びここを訪れた。
吾妻グループの吾妻勇太副会長が死亡したと報道された断崖絶壁だった。
しかし副会長が生きて帰ってきたことで、誰も訪ねることのない場所へと戻った。
前はここで海の生物たちの生贄になるはずだった。
今は殺人者となってしまった。
ナイフを向けた男と戦い、どうにか生き延びた。
明らかな正当防衛であるはずだ。
それでも法律が自分を擁護してくれるとは到底思えない。
人に捨てられため自殺を考え、人に捨てられたため見知らぬ男と殺し合った。
人が作った法を、どう信じろというのだ。
堀口ミノルは数日前とは違う人間になっていた。
吾妻建設の課長だったのも、複合商業施設「ビスタ」の担当だったのもはるか昔のことのようだ。
それどころか、もはや過去ですらない別世界の出来事に思えてならない。
あと一度でも風が吹けば崩れてしまう。そんな危険な精神状態に彼はいた。
かろうじて自分を保っているだけに、抱いた恐怖もまた、どこか現実味がなかった。
堀口は広がる海を眺めたあと、足もとを見た。
名前も知らない男が木の板に横たわっている。石のように固まって、かなりの時間が経った。
先日まで堀口を縛っていたロープが、今は男を固定している。
殺人者、あるいは誘拐犯。正体はわからない。
ただ堀口の心と体を限界まで追い込んだ張本人であるのは間違いない。
男の腐敗はまだはじまっていない。
廃工場に巨大な焼却炉があれば、死体を燃やすこともできただろう。しかし骨を粉にまで焼き切る妥当な装置は、工場内には見当たらなかった。
――この犯罪者め。
またもあの声が耳に響いた。
ついに否定ができなくなった。ひとりの男を殺したのだから。
しかし堀口は否定するためにここに立っている。
男の死体を遺棄することに決めたのだ。
誰にも見つからない場所はすぐに浮かんだ。この断崖絶壁だけが、死体をきれいに処理できる唯一の場所だった。
廃工場からここまで死体を持ってくるには、相当な労力が必要だった。
正確な道も知らなかったし、上り坂が続くため負担は大きかった。しかし堀口自身が工場たどり着く際に刻んだ痕跡たちが目印となって、ここまで死体を運ぶのに役立った。
堀口は再び死体を見た。
黒く焼けた肌と無数のしわ、年齢不詳。
はっきりと記憶しているのは、自分を殺そうとした鋭い目つきだけだ。
「あなたが誰で、どのように生きてきたのか私にはわからない。でも少なくとも、死んだ肉体に罪はない。山に埋めようかとも思ったが、ここが最もまっとうな場所なようだ」
――神の壁。
ここから落ちた命は、また別の命へと生まれ変わる。そんな伝説をもつ場所。
「どうか善良な人間として生まれ変わってくれ」
堀口は工場で偶然見つけた線香を焚いた。
煙が風に乗って海の方に流れた。
――ようこそ。
海が呼んでいた。
ここで多くの時間を費やすわけにはいかない。あの工場には人が閉じ込められているのだから。
誰があの部屋にいるのかはわからないが、それでも工場に戻ってその人を救わなければならなかった。
それが妻との約束。
「さあ、もうゆっくり休んでくれ」
堀口は崖の先まで男を運び、ナイフでロープを切った。板の先を掴んで持ちあげると、男はすべり台をすべるように海へと消えた。
じきに男は生態系の一部になるだろう。
たとえ自分を殺そうとした男であっても、死によって罪を償った。
きつくて苦しかった男との時間が終わりを告げた。
堀口が抱いた憎しみも、男とともに海へと吸い込まれた。
*
日が徐々に暮れはじめていた。
急いで山道をおり、工場へと戻らなければならなかった。
男を運んだ木の版が、道を作っていた。
折れた枝と踏まれた草の間を、堀口は急ぎ進んでいく。
工場に着いたら少しの休憩をとってから、あの部屋を開ける。
本来なら体を十分に休めてから部屋を開けるつもりだった。しかし急ぎ男の死体を処理したため、結局今日も一日中動き続けた。
傷はまだ癒えておらず、あらゆる筋肉が悲鳴をあげている。
それでも部屋を開けなければならない。
閉じ込められた者たちが飢え死にすることだってあり得るのだから。
堀口の足取りがさらに速くなっていく。
太陽がオレンジに染まり、徐々に道が暗くなりはじめた。
「ぐああっ!」
堀口は突然の傾斜に足をとられた。
まるでボールが転がるように、体が斜面で何度も回転し、草と枝が網となってようやくとまった。
ハァハァハァハァ!
痛みによって全身が震えた。その中でも、目のあたりの痛みは突出して強かった。
「見えない……目が」
ゆっくりと目に触れると、手に何かが当たった。
うぐぐ……!
さらなる痛みに襲われ、堀口はうめき声をあげた。
鉛筆ほどの太い枝が、右目に突き刺さっていた。
「ハァハァ……。世界はひとつずつ私を壊していくつもりか。
なぜ一度に死なせてくれないんだ」
頬は生ぬるい血にまみれ、顔が焼けるように熱かった。
刺さった木の枝をどうするべきか悩んだが、痛みに耐えられず一気に引き抜いた。
堀口の悲鳴が山中に響き渡った。
「人に続いて、自然まで私を捨てるんだな」
堀口はのたうち回り、オレンジ色の空を仰いで横たわる。
視力を失った目からは、血と涙が流れ出ていた。
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