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片目を失ってからというもの、距離感がうまくつかめない。
額からひっきりなしに汗が流れた。
顔の半分はまるで巨大な熊の爪にでも引っかかれたようにうずいた。
青々と生い茂った木々と草が、姿を変えた悪魔に見えてならない。
山道に何度も足を取られながら、工場に向かって降りていく。
頭は朦朧としたままだった。何のためにここを進んでいるのかも、だんだんと曖昧になっていった。
固執?
義務?
復讐心?
逃避?
様々な感情が入り乱れていて、すぐにそれらは消える。
痛い……!
痛みが心をつぶすように、全身をかけめぐる。
何度目だろうか。
堀口は小さな水場を見つけては、そこで休憩をとった。
水を飲み、血にまみれた目と顔を洗う。
顔半分が熱く、その他の箇所は麻痺したように冷えている。
突き出た岩に座った。
呼吸を整えながら、体温が一定になるのを待った。しかし目のあたりの熱が引くことはなかった。
ガサッ、ガサガサ……。
一匹のイノシシが遠くから堀口を見ていた。
距離にしておよそ30メートル。
堀口より高い場所にいるせいか、イノシシはやや高圧的な態度をとっているように思えた。
やはり、猟銃をもってくるべきだった。
仕方なく腰にかけたナイフに手をかけた。
手にしたナイフを高々と掲げ、まっすぐにイノシシを見つめる。
するとイノシシはしばらく堀口を眺めてから、何事もなかったように去っていった。
「ナイフが何かをわかっているのか……。もしかするとあの男に家族を殺されたのかもしれないな。目の前で」
キッチンに縛り付けられた数日の間に、一度だけ声を聞いた。
ギイギイギイと、イノシシがあげる断末魔を。
あのとき生き延びた家族――。
堀口はイノシシがいなくなったあたりをしばらく見つめたあと、やがてつぶやいた。
「あの工場に閉じ込められた人にも、きっと家族がいるだろう。行かないと」
堀口はようやく立ち上がり、軋む体を引きずりながら再び山を降りた。
*
廃工場に到着したときには、光はほとんど消えていた。
暗闇に溶け込んだような廃工場。外から全景を見るのは久しぶりだった。
はじめてここを訪れてからは、ずっと生臭いキッチンに閉じ込められていたためだ。
不思議なことに恐怖も感じなかったし、痛みも引いていた。
片目を失い、現実味がないからか?
いや、ちがう。
おそらく死ぬ覚悟ができたんだ。
あの日のようだ……。
吾妻建設に解雇され、断崖絶壁で命を断としたあの日のよう。
死ぬ覚悟ができたからこそ、体がまた元気を取り戻したのだ。
「あとひとつ。人生最後の仕事さえ終われば、やっと私は――」
工場の入口を通り、作業場を渡って、男が住んでいた部屋に入った。
ほとんどが手作りの原始的な部屋だったが、運良くタオルを見つけた。
包帯の代わりに、死んだ片目をタオルで包んだ。
処置を終えると、へたるようにその場に座り込んだ。するといくら立ち上がろうとしても、体が動いてはくれない。堀口を構成する細胞たちが、これ以上の活動を認めないように。
少しでいいから眠りたい。しかし今日を越すことなどできなかった。
明日になれば冷蔵庫に残るわずかな猪肉は腐ってしまう。閉ざされた部屋にいるふたつの目に食べ物を分け与えなければ。
堀口は残された力で、重い体を起こした。
男の部屋を出てキッチンに入ると、悪夢のような記憶がよみがえる。
自分が何日間ここに閉じ込められていたのか、もう思い出せなかった。
必要なのは記憶ではなく、冷蔵庫の中に残った肉。
堀口は肉を取り出し、つたない手つきで調理をはじめた。
手順は何となくだがわかっている。
調理方法を教えてくれたのは、あの男――。
料理を終えると、皿をもったまま隣の部屋へと向かった。
錠前の代わりにかけられているロープをナイフで切った。
扉を開けた瞬間、強烈な匂いが鼻をついた。
腐った肉や排泄物からなる悪臭が、養豚場よりも濃い匂いとなって扉から抜けていった。
部屋の隅にはふたりの人間。
姉妹とおぼしき少女たちが、ぶるぶると震えたまま座っている。
堀口が偶然出会ったふたつの目は、この姉妹のものだったのだ。
まだ5歳ほどの小さな妹を、姉が守るように抱きしめている。
少女たちは強い警戒心を抱いたまま、ゆっくりと扉のほうに視線を向けた。
姉と目が合った。
その瞬間、堀口は全身を強い鈍器で打たれたような衝撃をおぼえた。
残る片目で見つめた姉の姿――。
堀口の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「娘……。しずか……。おまえがなぜここに――」