「来ちゃった♥ 星埜、部屋あーげて♥」
ポタ、ポタ……と頭から水滴を滴らせながら、ベタベタに濡れた全身を振るわすこともなく、笑顔で朔蒔は言う。
(は、はあ?)
驚きを通り越して、呆れ、そして一周まわって、また驚きに行き着いて、俺の思考は小さなパニックを起こしていた。
夜九時に、連絡もなしに訪ねてきたクラスメイト。傘を差している様子もなく、この土砂降りの中歩いてきたものと思われる。そして、いきなり笑顔で部屋にあげてくれと言うのだ。こんなベタベタな奴を部屋にあげるわけにはいかない……そう思ってはいても、その濡れ具合を見て、即行風呂に入れてあげなければという感情にも駆られ、本当に忙しかった。
俺の内心は、こんな感じで明日提出だった課題が、今日だった、みたいな風に慌ただしく動いている。けれど、身体と、表情筋はかたまったまま、動かなかった。
(何で、朔蒔がここに? つか、傘は? 何時だと思ってんだよ)
言いたいことは一杯ある。けれど、笑顔を崩さず俺を見ている朔蒔を見ていると、昼間に感じた、可笑しいが、呼び覚まされて、言葉を失うしかなかった。何を、考えているのかさっぱり分からない。でも、笑顔の奥に、その瞳の奥に、寂しいものを感じて、俺はギュッと拳を握った。
一応、九時で、起きている人がちらほらいるとはいえ、この時間にチャイムを連打されるのも困るので、俺は朔蒔をもう一度見る。
「俺の顔に何かついてる?」
「……傘は」
「なー星埜、寒いんだけど、いれてくんない?」
と、朔蒔はいつもの調子で言う。本当に意味が分からない。
俺は、流されるように、分かった、と言って石床の玄関まで入れて鍵をかけ、そこで待つようにいった。朔蒔は犬のように濡れたままついてこようとしたが、俺はそのまま上がるなと釘を刺してから、脱衣所に行き、バスタオルと、それから、お風呂に湯を張った。まだ、俺も入っていなかったから、ちょうど良かったなあ、とも思って、俺は朔蒔の元に帰る。
朔蒔は、ベタベタのままそこに立っていて、一歩も動いていないというのが分かった。俺の言いつけを律儀に守って、朔蒔はそこに突っ立っている。昼間と一緒。長袖長ズボンだった。
「……」
「な~に、星埜」
「何で、俺の家……俺の家、分かった?」
「楓音ちゃんが言ってた」
「楓音は言わない。個人情報だ」
まあ、朔蒔が俺の家を広めるってこと無いだろうし、仮に楓音が言っていたとしても、楓音が言っていたからって言うことで俺は許してしまうだろう。まあ、それは良くて、問題はそうじゃなくて。
朔蒔の毛量のある髪の毛をバスタオルでくるんで拭きながら、俺は、されるがままになっている朔蒔を見た。気持ちよさそうに目を細めていて、本当に犬みたいだな、と思うと同時に、いつもの威勢がないのが気になった。もっと、突っかかってくるもんだと思ったし、九時でも元気いっぱい、だと思っていたから。
俺の中の琥珀朔蒔像が崩されたような気がして、意外……だった。
「ほら、拭けた。てか、脱げって。風呂も沸かしてるし、濡れたままじゃあれだろ」
「俺の身体見たいってこと?」
「違う、風邪ひくって言ってんだ。バカ」
何故か、身体を隠すように言う朔蒔に俺は引っかかりを覚える。雨が降っているとは言え、真夏の猛暑は夜にまで侵食して、俺は半それで半ズボンで部屋の中で過ごしている。朔蒔はどちらかというと、暑がりな気がしたから、そういう長袖長ズボンが嫌いだと思っていた。その証拠に、脱ぎたそうにしながら、脱がない、我慢、といった行動を繰り返している。暑いなら脱げば良いのに。
「分かった、見ないから。俺の、小さいかもだけど、持ってくる。それに、着替えろ。また、パジャマはパジャマで準備する」
「星埜やっさし~」
「普通だろ」
楓音に優しいと誉められたときとはまた違う、ちょっと馬鹿にされている感があって、腹が立ったが、今此奴に向かって何か怒るつもりはなかった。怒ってはいけない気がしたのだ。
機嫌を損ねた子供みたいに扱わないといけない、なんて頭の中で誰かが指示を出しているようだった。身体は立派な大人な気がするけどな。
俺は、タンスから自分の着なくなった服を物色し、悪いとは思いつつも、父さんの使っていないパジャマを持ってリビングに向かった。朔蒔が立っている場所は若干、まだ本人が濡れているので、床にシミが出来ていたが、これくらいなら乾くだろうと、思い、俺は朔蒔に声をかける。
「朔蒔」
「星埜、おっそい」
「いきなり着て、そんなこと言うのかよ。お前……ほんと、そういう所は、いつも通りで安心する」
と、思わず声に出してしまい、俺は口を覆うために手を離す。両手に抱えていたパジャマや服が床に落ちて無惨に広がる。
「いや、ごめん。なんか、いつもの朔蒔っぽくなくて……ほら、心配だって言っただろ」
(あれ、何で、俺声震えてんの?)
可笑しいな、なんて、俺は、落ちた衣類を広いながら、朔蒔を見る。朔蒔からの反応がなくて、焦れったくなり、見上げれば、そこには、見たこと無い朔蒔の顔があった。
まるで、聞くなって、聞いてくれるなよって、怒っているような、泣いているような顔で。
「星埜ってデリカシーねェの?」
朔蒔は、黒い瞳を揺らして、俺を見て、自傷気味に笑った。
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