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都市外縁、港湾区、階層共同住宅『潮風邸』の三階で騙す者は目覚める。東側の少し高い位置にある窓から差し込む朝の陽光が西側の壁の、海風のもたらす幸運を意味する掛毛氈に触れた瞬間のことだ。
隣に眠る太陽の霊の豊かな睫毛が枝垂れているのを見て、愛しい人を起こさないように寝台を這い出で、汗に濡れた服を脱ぎ、洗いたての服に着替える。港湾労働者らしい袖と裾が窪み、風の通り抜ける麻の上下だ。腹は空かないが固くなった麺麭の欠片を食べる。
大事な日だ。忘れ物がないことを確認していると、良い夢を惜しむようにフィーガセラがゆっくりと上体を起こす。とびきりの美人の優雅な目覚めをタラシウスは見逃さないようにする。フィーガセラは夢半ばの寝ぼけ眼をまるでタラシウスが後光を放っているかのように細めて、迷惑そうに言う。
「今日も昨日と同じね。タリー。一昨日もそうだったかも」
「今朝は早いね。フィー。何の話だい?」
タラシウスは南側の窓蓋を開け、港の風景をちらと見る。
黄金色と薔薇色に染まる空。未だ夜を溶かしたような紫の海。海上の海鳥のように船は帆を畳み、間近に迫る労働に備えてゆらゆらと休んでいる。ちらほらとこの都市の生活者が現れ始め、軒下や桟橋の下に潜む者たちの好まない活気のざわめきが徐々に大きくなる。
タリーはフィーの為に水割り酢を用意する。フィーガセラの朝は水割り酢から始まり、タラシウスの朝はフィーガセラの為に水割り酢を用意するところから始まるのだ。
美しいフィーガセラは受け取った水割り酢で唇を湿らせただけで脇机に置く。今朝は少しばかり不機嫌であることを意味する。
「まるで象牙輸入業者の帳簿管理人みたい」フィーガセラはタラシウスの格好を見ながら言う。「あたし、飽きてきたわ。この生活」
「嘘だろ? まだ半年も経ってない」
「本当よ。私の言うことを疑うの?」
「そういうわけじゃないけど。平和は嫌いか? 素朴な労働、慎ましやかな食事、安定した生活。全部捨てて元の生活に戻りたいのか?」
「好きよ。元の生活にも戻りたくない。あたしたちは足を洗って新しい人生を始めたんだから。でも単調で刺激のない生活は嫌い」
「そうか。じゃあ引っ越そうか。どこが良い?」タラシウスは南側の窓辺にもたれかかり、水平線を見つめる。「埋め城市、五角郷、道沿い。人の住む街ならどこでもいい。支柱街に戻るのでさえなければね。行ってみたいところはあるのか?」
フィーガセラは地上の人々の罪を見出した女神のように溜息をつく。
「場所じゃない。場所じゃないわ、タリー。それではあたしの生活は変わらない」
「じゃあ君も働くかい? 女将さんが下の店の従業員を探していたけど」
タラシウスはフィーガセラの代わりに水割り酢を飲む。
「仕事なんて、無理よ。あたし美人局しかしたことないもの」
「十分さ。美人局ができれば何だってできるよ」
フィーガセラは唇を尖らせて言う。「それに家事はどうするの?」
「小間使いでも何でも雇えば良いさ。それくらいの稼ぎも蓄えもあるじゃないか」
「そんなのあったかしら?」
「それくらい稼げてるって意味だよ。僕は君のことをよく知ってる。飽きっぽくて世間知らず。別に僕はそんなの気にしていないけど、君はそのことを気にしてもいる。つまらないなら君自身が動くことだ。刺激的な出来事に足は生えちゃいないんだから」
そう言い残してタラシウスは部屋を出ようと扉の取っ手を握りしめ、しかし手を止める。ゆっくりと扉に耳をつけ、外廊下の足音を聞く。
「タリー? どうしたの? 刺激的な出来事が自分の足でやって来た?」
タラシウスは忌々し気に舌打ちをして、建てつけの悪い扉から素早く離れる。「どうやらそのようだ。健やかの野郎の馬鹿みたいな足音が聞こえる。こき使われるのはもうごめんだ。逃げよう。準備して」
「もう出来てるでしょ」そう言って可愛いフィーガセラは寝台の下から大きな鞄を引っ張り出して背負う。まるで待ってましたとでも言わんばかりの清々しい笑みを浮かべて。
タラシウスも玄関に置いてある小さな巾着を拾うと、素早く静かに窓辺へと戻ってくる。
「それだけ? 嘘でしょ?」とフィーガセラはわざとらしく驚いた様子を見せる。
「本当さ。でも見かけだけだ」
二人して三階にある南側の窓から飛び出す。雨樋と壁の接合部と柵を足場にして手練れの盗人のように軽々と地上へ降りる。上から扉を叩くような、破るような音とタラシウスの名を呼ぶ刺すように鋭い怒鳴り声が聞こえる。二人の逃亡者は、早朝には相応しくない騒々しさを厭う人々の目も気にせず、まだ住み慣れていない共同住宅から歩き去る。
タラシウスとフィーガセラは、屋根も品もないが辛うじて車輪はある年代物の相乗り馬車に乗って、土埃に塗れた道と塩辛い潮風に揺られる。海沿いの野原に敷かれた古い石畳の街路は半地下の街マズガス市へと続いている。二人は広い馬車の端の方で、こちらに関心を向けていない駄作の彫像のように無表情な他の客を警戒しながら囁き合う。
「どこへ逃げるの? どこまで逃げられるの?」フィーガセラは楽しそうで不安そうにタラシウスに尋ねる。
タラシウスは今にも歌い出しそうな陽気で答える。「どこへでも逃げられるさ。どこか行きたいところはある?」
「そうね。海は見飽きたから海のない所ならどこでも良いけど」可憐なフィーガセラが妖精の羽音のようなため息をつく。「ねえ? お金はいくらでもあるわけではないわよね?」
「ああ、そうだね。もしもそうなら苦労はないけど、お金はいつだって有限で、大概は足りないものだ。ポールゴの思慮のようなもので、常に僕たちを悩ませる」
「だけどタリー。あなたはお金に悩んでいるように見えないわ。あなたほど人々に疑われない人もいないけど、あたしはそれが手練手管のなせることだと知っている。まだ詐欺をしているんじゃないでしょうね?」
タラシウスは真面目で誠実そうな詐欺師の得意とする表情で応える。
「してないよ。本当だ。もうしてない。君が美人局をしていないように、僕は詐欺師から足を洗ったんだ。そして何より君だけには騙すようなことをしないし、したこともない」
「ということは隠し事ね。騙されたことは私の知る限りないけど、隠し事は何度かあったわ。何を隠しているの? 白状しなさい」
見飽きないフィーガセラの顔で見つめられるとタラシウスは答えてしまう。「以前の蓄えがまだある。それは、まあ、隠すほどのことじゃないから話すほどのことでもないと僕は思っていたんだけど」
フィーガセラの鋭くて麗しい眼光にタラシウスの心臓が射止められる。
「以前? 詐欺師の時の?」
「そうだ。僕は金を稼ぐ才に優れているが金を使う才能は無いんだ」
実のところタラシウスの少し汚い財産は小さな巾着の中にあった。タラシウスの所有する大金のほとんど全ては宝石に変わっていて、幻や虚ろやささやかな呪文と共に詰め込んであった。
フィーガセラは眩い眼差しを向け、麗らかな声で指摘する。「それは足を洗ったとは言えないんじゃない?」
タラシウスはほんのひと時だけ考え、出来る限り率直に答える。「あるいはそういう考え方もあるかもしれない」
「ここにあるわ。私の頭の中に。そしてそれ以上に大事なことなんてない。そうよね?」
「ああ、その通りだ。だけど……」
諫めるような海風の音の合間に早馬の急かすような蹄の音が聞こえ、タラシウスは後にした道を振り返る。計五頭の馬が石畳を激しく叩き、街路を追ってくる。
「賊だ! 急げ!」とタラシウスは馭者に鞭打つように素早く命じる。
馭者は二頭の馬に鞭打ち、相乗り馬車は石畳を猛烈に加速する。しかし五頭の馬はどれも精強で、すぐに馬車に追いつき、特に猛々しい一頭は馭者のそばに並走した。乗手はポールゴだ。
「止まれ。用があるのは後ろの若い男女だけだ。止まったなら他は見逃す」
ポールゴの野太い威圧的な命令に相乗り馬車の馭者は火遊びを見つかった子供のように怯える。しかしタラシウスもまた馭者台まで幽霊のように静かにやって来ていて、馭者の耳元で隙間風のような声で囁く。
「賊の言うことなど信じられるものか」それは夕暮れ時に幽玄なる森の奥から聞こえてくる正体不明の声だ。微かで朧気で、確りと魂を握る。「強欲な連中だ。硬貨の一枚も見逃しやしない。奴ら剣を佩いてるぞ。おかしいな。そんなもの必要か? もちろん必要だ。首を切り落とすには剣が要る。五人の賊。五本の剣。四人の客。いや、あんたを含めて五人だ。数が合う」
馭者は躊躇うことなくさらに鞭を振り、馬車は加速する。追っ手との距離が開き始めたその時、フィーガセラが悲鳴を上げた。
タラシウスが振り返ると客の二人が歪な短剣を抜き放ち、フィーガセラを乱暴に取り押さえていた。
五人の賊に比べると線の細い男が居丈高に命じる。「馬車を停めるように言え」
「分かった。だがその娘は丁重に扱え」
タラシウスは馭者に命じ、即座に停車させた。すぐに五頭の馬が再び追い付き、タラシウスとフィーガセラが腕っぷし自慢の男たちに引きずり降ろされると、馭者だけが残った相乗り馬車は躊躇うことなくマズガス市の方へと走り去った。
ぎらりと光る剣を携えた男たちにすぐさま鞄と巾着を奪われる。
「ないぞ。ポールゴ」鞄をひっくり返し、巾着を広げて賊の一人が言う。「おい! タラシウス! 上納金をちょろまかしたことは割れてるんだ。どこにある」
「やめろ!」と言ったのはポールゴだった。「その男と口を利くな。天才詐欺師なんて可愛いもんじゃねえ。騙す魔法の使い手だ。本当に目の前にいるのかどうかも疑ってかかれ」
「じゃあ、どうするんだ? 金はどこにあるんだ?」と別の男がタラシウスに目を向けないようにして言う。
タラシウスは声を震わせて弁解する。「旅に持って運べる量じゃない。マズガス市の銀行に預けてあるんだ」
「聞いたか? ポールゴ。マズガスだってよ」と更に別の男が言う。
「いいや。聞いちゃいねえ」とポールゴは頑なに断言する。「乗せられるな。マズガスに何か罠があるのかもしれん。いいか。お前ら。こいつの提案には一切耳を傾けるな。全てはこちらで決めるんだ」
そうして愛しのフィーガセラは馬に乗せられ、マズガス市へと連れて行かれてしまった。身代金は有り金全部。具体的な金額を言わなかった。
空っぽの鞄を抱えてタラシウスは盆地に半分埋まったような街、マズガスへと急ぐ。裏社会にも通じていて、なおかつ逃走資金を預けるに足る信用できる銀行はそこにしかない。
しかしタラシウスはマズガスの中央市街に構える銀行の前を通り過ぎ、商店街の花屋へと赴く。
新しもの好きのフィーガセラが好みそうな店構えだ。可憐で瑞々しい生花だけでなく巧みな業で作られた乾燥花や花香瓶も所狭しと並んでおり、辺りには馨しい芳香が漂っている。
店員はタラシウスの顔を見るとすぐに花束を準備した。花束は空っぽの鞄の中に隠した。全ては予定通りなのだった。
貧民窟に接するような郊外の指定された場所に、街が欲に塗れる前の古い時代には上流階級の邸宅であったのだろう廃屋があった。タラシウスは臆することなく勇敢な戦士のように真正面から屋敷へ飛び込み、無理にこじ開けられた跡のある扉を開く。
「こっちだ。ここに来い」
ポールゴの声だ。声の聞こえる方へ臆することなく進む。もはや誰も寛ぐことのない居間。冷たい暖炉があり、埃をかぶった多くの調度品が残っている。そこにはポールゴを含めて五人の男が待っていた。他にいるはずの二人は何かに備えてどこかに隠れている、という体だ。
五人の男は一脚の椅子を取り囲んでいる。そこには誰も座っていない。フィーガセラの姿はない。
ポールゴはこれ見よがしに剣を抜いて、その刃で椅子の上の虚空を撫でまわす。
「さあ、ぐずぐずするな。だが一言でも喋れば女の喉を掻っ切るからな」とポールゴは自信に満ちた表情で命じる。「女の命が惜しければさっさと鞄を寄越せ」
「フィーガセラはどこだ?」とタラシウスは言うがポールゴたちは困惑した様子で視線を彷徨わせる。
タラシウスが指を鳴らすとポールゴたちの目を覆っていた幻影が消え失せる。ポールゴたちは椅子の上にフィーガセラがいないことに今になって気づく。
どうやらフィーガセラは自らの力で逃げ果せたようだ。このような魔術を使えるとは知らなかった。タラシウスの魔術を盗み見て学んだのだ。フィーの前でこの魔術を見せたことがあったろうか、と思い返すが思い出せない。
「計画が台無しじゃないか! さっさと探してきてくれ! 十分な金は払ったろう!?」
ポールゴたちは慌てて廃屋を飛び出していく。
タラシウスは深いため息をついて椅子に座る。刺激が強すぎただろうか、と後悔する。いや、逃げ果せられる能力を持っていたのだ。むしろフィーを過小評価していたのだ。
ふとタラシウスは椅子の下に見慣れた巾着が落ちていることに気づく。これもまた計画に必要な小道具が入っていたのだ。
タラシウスは巾着を拾い、中に詰まった幻惑を取り除こうと開く。しかしそこにタラシウスの魔法はなく、隠されていたはずの宝石もなくなっていた。
その事実を呑み込むのに多くの時間を要した。まるで本体を剥がされた時のように時間が止まっていた。巾着には確かに詐欺師として稼いだ財産が詰め込まれているはずだった。そしてもう一つ……。
騙されたという訳だ。騙す者とまで称する己が嵌められたのだ。これほど滑稽なことがあろうか。タラシウスは自嘲的に大笑いし、その笑い声が全て静寂に吸い取られてしまうと、怒りのままに椅子を蹴り上げようとし、しかしそのような気力さえないことに気づいた。
それからどのようにして廃屋を出たのか分からない。どこをどう歩いたのかも分からない。ただ、気が付くと元の部屋に、都市外縁、港湾区、階層共同住宅『潮風邸』の三階のまだ住み慣れてすらいない部屋に戻って来ていた。あれから何日経ったかも分からない、ある夜のことだ。
フィーガセラはいない。
宝石など、全てくれてやったのだ。フィーが望むならば惜しむ物など何も持っていない。宝石を持ち去ったことではなく、自身を置いていったことにタラシウスは深く絶望していた。
タラシウスは変装の魔術を解く。本当の姿がどれなのかタラシウスにも分からないが、本体は舌をだらりと垂らした鯉の絵が描かれた紙切れだ。媒体となったのはフィーガセラが着なくなった衣装だ。
タラシウスは部屋の真ん中にうずくまり、脇腹の辺りに貼ってある己の本体を剥がす。自分が剥がしたならば触れている限りは己を保っていられる。しかし離した瞬間、この精神は停止してしまう。
何にも貼られないように接着面を上向きにしてタラシウスは己から手を離す。
次の瞬間、視界が光に溢れ、タラシウスは飛び起きる。札を剥がされている間、タラシウスは経過した時間すら感じ取ることができない。その事をすっかり失念していた。
しかしそんなことはどうでも良かった。目の前に美の化身と見紛うフィーガセラがいた。呆れたような、嘲るような麗しい笑みを浮かべている。
「ああ、疲れた。どうやら、その様子を見るに、あたしのことを信じて待ってくれていたってわけじゃなさそうね? タリー?」
「だって、フィー、君がいなくなって、宝石が無くなって、それはそういうことなんだと思うよ」
「決めたことでしょ? 新しい人生を送るにあたって、あたしたちは足を洗わなくてはいけない。だから詐欺で稼いだ宝石を持っていてはいけないの。全て換金して元の持ち主たちに返してきたわ。まあまあ刺激的な仕事だったわよ?」
「そうしてくれと言ってくれれば――」
「あたしに黙って宝石を持っていたくせに」
「それは、その通りだ。ごめん。……ところで、その、巾着の中に指輪があったよね? あれも?」
「ああ、そういえばあったわね」そう言うとフィーガセラは類稀な造形の華奢な左手を掲げる。そこには控えめに煌めく指輪が一つ。「まるで婚約の証って感じじゃない?」
そう言って悪戯を成功させた子供のように微笑むのだった。