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気が付くと戦う者は蛙だった。いつ自分が気が付いたのかすら分からなかったが、その身が蛙だということはすぐに分かったし、その正体が蛙ではないことも自然に確信していた。
一体何ゆえに俺様は蛙なのだ。これは決して俺様に相応しくないはずだ。
ワドゥは己が身の不幸を嘆きながらも、降りかかった不幸の正体を一つ一つ見極める。
そこは幽霊も顧みないような寂しい沼の畔だった。その沼の古さは蛙たちの歌に伝わるのみで他には誰も知らず、濁った沼底に隠されていた尋常ならざる何かについては歌にも伝わっていなかった。ワドゥの小さな身では繁茂した葦でさえ大森林で、少し霧がかっていることもあって見通しが悪い。
そんな場所に相応しい体だ。精霊の加護とは無縁そうな矮小さで、沼そのものを纏っているかのようにぬるぬると滑っていて、光や音と同じくらい湿り気を敏く感じている。空腹も感じていたが、ワドゥの魂はそれを他人事として不快に感じないことができる。腹の奥に異物を感じるが、それは腹の足しにはなっていない、ように感じる。
ワドゥはそれが当たり前であるかのように蛙の身体で直立二足歩行する。少しばかり形が変わって、人型に近くなる。更にもう一つの隠された姿も魂が覚えていた。それは老人の頭に蛾の如き羽根が生えた禍々しくも珍妙な姿で、ワドゥは気に入らなかった。
沼には他にも蛙が何匹か、時折湿り気ある世界を讃えながら各々に鳴いている。お玉杓子だった頃の記憶もないワドゥだが妙な親近感が湧く。ワドゥは一匹の足の太い蛙のもとに近づいて声をかける。
「やあ、良い声だな」とワドゥは鳴く。
「やあ、変わり者の君の方から話しかけてくるなんて珍しいね」と足の太い蛙は答える。
「俺様はそんなに変わり者だったか?」
「ああ、もちろん。だが今の君ほどではないかな」そう言って足の太い蛙は鳴嚢を膨らませる。「さすがにかつての君とて後ろ足は跳ねる為に使っていたよな」
「慣れれば悪くないぞ」そう言ってワドゥは軸足一本で回転したり、踊ってみせたりする。
「一体なんだってそんな風にへんてこになっちまったんだい?」
「うむ。正直なところ俺様にもよく分からん。元は蛙ではなかったようにさえ思えるのだ」
「ああ、そりゃそうだ。元はみんなお玉杓子さ」
「いや、そういうことではなく」ワドゥは過去に無いが頭の中にはある記憶を探る。「俺様は人間、あるいはもっと崇高で偉大な存在だったように思う」
「いよいよおかしなことを言い出したな。まあ、だが今は蛙だ。俺も君も皆もな。蛙は蛙らしく沼と湿り気と美味なる虫たちの恵みに感謝していればいいのさ。蛙とはそう生きるものだ」
蛙がそう生きるものだとしてもワドゥは受け入れがたかった。俺様には俺様に相応しい生き方があるはずだ、と信じて疑わなかった。
その時、古沼の蛙たちが一斉に鳴きだした。それは警告であり、すぐに悲鳴が混じる。天を覆い尽くさんばかりの沢山の大きな影が沼を横切り、身の毛があったならよだっていただろう尊大な風切り音が降り注ぎ、今の今まで平らかだった沼の水面が嵐を迎えたかのように激しく波打つ。
鴨の襲来だった。それも空腹に苛立ち、優雅さと平静さを失った捕食者だ。次々に着水する鴨たちが水掻き付きの強靭な足でもって沼と葦を掻き分け、散り散りに逃げまどう蛙たちを追う。教わらなくとも蛙の魂に刻まれている恐怖が警鐘を鳴らす。
しかしワドゥの本性は否と答える。その小さな体には持てあますほどの戦うための魔法を秘めている。
俺様に相応しい生き方があるとすれば、それは流れに掉さし、茨の道を行く、そういう生き方に違いない、とワドゥは確信した。
「俺様はワドゥだ! 戦う者であり、理想をつかみ取る者だ! 忌々しい鳥どもめ! 誰の許しを得て俺様を見下ろしている! その首、掻っ切ってやろう!」
ワドゥは一本の葦を引き抜き、二つに折りながら呪文を唱える。それは地熱に愛された古小人たちが用いた言葉であり、鉄や鋼と交わされたという古い約束に由来するまじないだ。
葦は鋼のように硬質化し、良く鍛えられた剣のように鋭い刃を得る。
ワドゥの挑発に乗るように一羽の鴨が沼から上がってきて、かつて神々の武器庫から盗まれた二叉槍の穂先の如き硬く鋭い嘴を繰り出す。瞬く間の攻防。破裂の如き力のせめぎ合い。葦と嘴が激しく打ち合い、地に伏したのは鴨だった。
しかしワドゥは勝利の余韻に浸る間もなく走り出す。まだ名も聞いていない足の太い蛙が必死に鴨から逃げている姿を見つけたのだ。既に犠牲は両の手足で数え切れぬほどだが、ワドゥは諦めることを知らなかった。いや、戦う以外の術を知らなかった。
間に割り込み、鴨を打ち払う。しかし空から舞い降りるもう一羽には気づいていなかった。
ワドゥの蛙の体は一口に呑み込まれてしまった。
気が付くとワドゥは鴨だった。今度はそれ以前の記憶もある。さっきまで蛙だったはずだ。
目の前で再び足の太い蛙が鴨に追われていたので思わず割り込む。
「おい! 何だよ! 横取りする気か!?」
蛙にありつけなかった鴨がぎゃあぎゃあと喚く。しかしワドゥは何も言葉が出て来なかった。
鴨に呑み込まれる一瞬前、取り落とした葦が水掻き付きの足元にあることに気づく。まさに自分を食べた鴨に成り代わったのだと察する。
なぜかは分からない。なぜかは分からないが自分はそういう者なのだ、と理解する。死を前にした恐怖が満腹感の中に埋没していく。
あちこちで鴨と蛙の鳴き声が聞こえる。理不尽で無情だが、食うか食われるか、それが世の決まりであり、ありふれた営みなのだ。
だからどうだというのだ、とワドゥは己を鼓舞する。
食われぬ者はいくらでもいる。その世界の王者たちはただ食するのみで食われることはなく、食えなかった時にのみ死が訪う。
己がそういう者であるならば、この在り方を利用して相応しい者になればいい。この魂にはそれが可能なのだ。知恵と知識と手先の器用さで霊長に上り詰めた生物、人間に食われ、人間に成ればいい。
そうとなれば話は速い。ワドゥは目覚めた沼地を軽々と飛び去り、人間を探す。二足歩行する生き物だ。地上ならばどこにでもいるだろう。
それに人間はほとんど何でも食べるはずだ。丸々と太った鴨などすぐに齧り付くことだろう。
古い記憶まで包み隠していそうな深い霧を抜けると、ワドゥは森をかすめるように飛んでいることに気づく。
次の瞬間、下から上へ何かが飛んで行った。矢だ。つまり人間だ。事態は良い方向へと転んでいるらしい。木々の隙間にちらりと矢を番える者を見かける。しかし放たれた矢はまたも外れた。
致し方ない。上手く見計らい、風に乗り、矢を番う者を観察する。お膳立てという訳だ。
そしてようやく突き上げるような衝撃を食らう。痛みが脳天を刺し、体が思うように動かなくなる。成すがまま木の枝にぶつかり、木の葉を撒き散らし、地上へと墜落する。
ここでこうして待っていれば人間に持って帰られ、食卓に上ることだろう。死にゆく鴨にも、それを食べてしまうだろう人間にも悪いが、これもまた食うか食われるかなのだ。
しかしやってきたのは人間ではなかった。それもまた捕食者だ。獲物を見逃さぬ眼光に、捕えれば離さない爪、牙。狡猾さを持ち、しかし家畜を財とする人間の邪な敵。狐だ。それも餓えた番だ。そこには焦慮を感じ取れる。あるいは餓えた子が巣穴で待っているのかもしれない。
これはまずいと息も絶え絶えの鴨の体を無理に動かして飛ぼうとするが、翼は血に濡れ、躍動すべき筋肉は鏃に引き裂かれており、あえなくばたつく他なかった。
二つの変身を試みようとした時には牙と爪に無惨に引き裂かれ、血と羽根を撒き散らし、肉塊に様変わりしていた。
気が付くとワドゥは狐だった。が、死骸だった。何が起きているのかすぐには分からなかった。血に濡れた目に光は届いていないが、その奥の魂には届いている。空気の響きが音を成し、音の連なりが言葉を結ぶ。
「運が良いんだか悪いんだか。まあ、狐も悪くない」と誰かが言った。
それに応えるように犬が吠えた。
ワドゥは何とか思考を巡らす。死んでいても構わないのなら、生き物でなくても構わないのか。ならば話は違ってくる。ワドゥは次の一手を模索するが、それは目的地を定めないままに分かれ道を前にしたようなものだ。どちらも正解ではない。どちらが正解だとまだ決まっていないのだ。
どうやら憐れな狐の番の片割れは食事の最中に飛び込んできた狩猟犬に喉笛を噛み切られてしまったらしい。
ワドゥはうっすらと目を開ける。未だ森の中で、狐の体は狩人らしい男の肩に担がれている。
遠回りにはなったが狐が食われれば、当初の予定通り晴れて人間になれるのだ。ワドゥは後のことは後で考えることにした。
狩人は嬉しそうにすり寄ってくる犬を宥める。「待て待て。お前の取り分はちゃんとあるぞ。なんなら肉は全部お前のものだ」
ワドゥは耳を疑う。犬に食われては厄介なことになる。狩人が相棒の狩猟犬を食べることなど万に一つも無いだろう。
「ただし毛皮は俺のものだ。あまり毛艶は良くないが、まあ、小遣い稼ぎだな」
その場合どうなるのだろう、などと悠長に考えている場合ではない。犬になるか、誰も食わない毛皮になって末路は鞄か襟巻きだ。どちらの選択肢もありえない。
何とか逃げ出さなくてはならないが男の肩から飛び出しても地を走れば犬の牙、空を飛べば鏃の餌食だ。かといって戦う魔法で男と犬を殺すのはあまりにも忍びない。
どうしたものかと思い悩んでいると、《幸運》の囁きが聞こえる。川音だ。男と犬はそちらに向かっている。橋でも渡るのかもしれない。
果たしてその通りだった。《幸運》は微笑みを浮かべ、使う人間はそういないのだろう粗末な橋の上で川下を指さしている。逃げ果せるには十分な流れの速さだ。
ほんの僅かな好機だ。息はないが息を潜め、その時を待つ。そして、《幸運》の手を取る。
気が付くとワドゥは鯨だった。何がどうなったのかは分からない。おそらく川を流れ、海を漂流し、海驢か何かと間違えた鯨に呑み込まれたのだろう。
どこまでも広い大海原。どこまでも深い海の底の世界。地上でもよく知られた煌めく鱗に未だ日の目を見ぬ複雑怪奇な生物群。目には見えないが確かに存在する流れの道。沢山の雄大な仲間たちと共に吸着音の歌をうたい、反響定位の言葉を交わす。月と星、泡と流れ。二つの世界を分かつ境界について語らう。海中の者たちが知るべきこと。地上の者たちが知るべきではないこと。未だ多くの秘密が隠された豊かな世界だ。
「外の世界からの旅人よ」と話しかけてきたのは自分自身だった。「一体何用があって参った」
その鯨の魂がワドゥの魂に語り掛けてくる。
「何か用があったわけじゃない。流れ流れてここへ来たんだ。突然すまなかったな」
「うむ。気にすることはない。この世界でもままあることだ。何処より流れ流れて何処かに去っていく。流れは留まることなく、常に我々を運び去る。望むと望まざるとに関わらず、逗留はひと時のこと。抗う術はなく、身を任せるほかない」
「俺様もいずれ去るだろう。ひと時の間、身を寄せていても良いか?」
「歓迎しよう」
鯨が急速に浮上する。ワドゥは身を任せるがすぐにその意図を察する。海面に影があった。また狐ということも無いだろうが、一口に呑み込んでしまうのだ。この巨体にあって何者かに食べられることなど滅多にないだろう。
まるで海面に、外との境界に食らいつくように大口を開けて、鯨は迂闊な獲物を一呑みにした。
気が付くとワドゥは人間だった。いよいよ意味が分からない。
辺りは真っ暗だ。生臭い肉塊に包まれたような感触だ。
最後の記憶で鯨が生きたまま呑み込んだのも人間だった。だが食われたのではない。食ったのだ。
おそらく先ほど歓迎されたばかりの鯨の胃袋の中にいるのだろう、とワドゥは察する。申し訳ないが俺様の運命の潮流はとても速いらしい。
一か八かだ。この人間とて一度は死んだようなものだ。今どれくらい深い海にいるのか知りようもないが、脱出するしかない。
ワドゥは鯨の胃袋の中で暴れる。殺したくはないので控えめに暴れる。するとすぐに胃が膨張と収縮を繰り返す。何度も食われてきたが吐き出されるのは初めてだ。
あいかわらずワドゥは人間だった。船から落ちたらしい憐れで間抜けな船乗りの魂は海面に出るまでに意識を失ったが、何とか生命は保たれたようだった。
船の姿はなく、鯨の気配もない。ワドゥは海に背を向け、空を眺める。あとは流れに身を任せる。