コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ソレールの家にお世話になってから、なんだかんだと、もう1ヶ月が経ってしまった。
我ながら図々しいとは思うが、ソレールが一度たりとも邪険に扱うことがないので、申し訳ないほどここに居続けることに、後ろめたさはない。
ちなみに一日置きに通ってくる家政婦のミルラは、初日こそ「あらあら」と目を丸くしたが、それっきり何の詮索もしてこない。未婚の若い男女が、同じ屋根の下にいるのに。
おそらくソレールが、上手に説明をしてくれたのだと思うが、ふくよかな身体のミルラは、いつもニコニコ笑っていて、アネモネが何をしていても口を挟むことはしない。
ついでに言うと、家事の手伝いもさせてくれない。一人でやったほうが効率的だそうだ。
そんなわけでアネモネは、居候の身であるのに、昼間は街にでかけ、夜はミルラが用意したり、ソレールがブルファ邸から持ち帰ってきた食事に舌鼓を打つ毎日を送っている。
とはいえ家賃を払うわけでもなく、食費も入れず、申し訳ないほど快適な生活を送らせてもらっていると、こんな小さな家にしか住めない薄給騎士に対して罪悪感はある。
なら少しくらい金を入れるべきだが、何度、滞在費を渡そうとしても、ソレールが受け取ってくれず、終いには、彼はとても不機嫌な顔になって「君は、そんなことを気にしなくて良い」とピシャリと言う始末。これまでで、一番怖い顔だった。
ああ、この人、そんな顔もするんだと新鮮な気持ちになったけれど、好き好んでそんな顔を見たくはない。
だからアネモネは、滞在費について口を出すことはできなくなった。
そのおかげかどうかはわからないが、ソレールとは良好な関係が続いている。
*
飴色の空の下、アネモネは花壇の水やりをしていた。ミルラから引き受けた数少ないお手伝いである。
ミルラはふくよかな身体のわりに良く動く。
家事全般、苦手とするものがなく、ものすごいスピードでそれらをこなしてくれるが、年のせいで腰が悪い。
中腰になる花壇の水まきは、ミルラが苦手とすることで、アネモネにとったら唯一失敗しないと自信を持って言えること。だから、これだけはやらせてもらえる。
花壇の水やりは夏場は早朝と夕方に。対して冬は昼間にやるのがいいらしい。初耳だ。野菜だろうがお花だろうが植物には変わりないので、水やりのタイミングは同じだそうだ。
アネモネの自宅には、花壇はないけれど畑はある。帰ったらさっそく実践してみよう。そんなことを考えながら、アネモネは柄杓を使って水をまく。
一通り終えたと同時に生暖かい風が吹き、湿った土の香りと甘い花の香りが、アネモネの鼻孔をくすぐる。
のんびりと水やりをしていたら、もう日暮れ。つまり夕食の時間だ。
本日のディナーは子羊のパイ包みと、トマトのスープ。ミルラの得意料理らしい。楽しみだ。でも、
「……ご飯くらい作れるのになぁ」
アネモネは肩を落として、呟いてしまった。
自宅にいる時は一通りの家事をこなしてきたから、この優雅な生活に、ちょっとだけ不満を持っている。
親代わりのタンジーは絵描きなので、筆が乗ってくると寝食を忘れてしまうから、彼の健康管理は自分の役目だった。
料理だって得意ではないが、それなりにレパートリーを持っている。でもソレールは、頑としてキッチンに立たせてくれない。
きっと初日の就寝場所のように強く主張すれば、きっとソレールは折れてくれるだろう。でも、それでは何か違うような気がする。
そんなことを考えながら、アネモネはなびいた髪を手櫛で整えて、室内に戻ろうと花壇に背を向けた。その時、少し離れた場所から声を掛けられた。
「お疲れ様、アネモネ」
「ん?……あ!おかえりなさーい」
声のする方を向けば、騎士服姿のソレールがいた。手には小さな箱がある。
女性が喜びそうな可愛らしいリボンがついたそれは、中身を確認しなくてもわかる。間違いなくデザートだ。
(箱の中身は、なぁーんだろう)
ソレールは、とてもセンスがいい。彼が持ち帰ってきたデザートは、初めて目にするものばかりだが、その全てが美味しい。
アネモネはごく自然な動作で、小箱に近づき中身を確かめようとする。
けれど、手を伸ばした瞬間、それはひょいっとアネモネの手が届かない高い場所へ移動してしまった。
「これは食事が終わってから食べようね」
「……はい」
恨みがましい視線を感じたソレールは、小箱を持ち上げたまま「これは逃げたりしないから」と言って、苦笑した。
マントと上着をポールハンガーに掛け、剣を所定の位置に置いたソレールは、バスルームに向かう。湯を浴びるのではなく、着替えるために。
私室をアネモネに譲った彼は、これまでの勝手気ままな独り身の生活ができないのに、一度も愚痴を吐いたり、アネモネに不満をぶつけたりもしない。
それどころか、夜勤がない日はアネモネの為に毎度デザートまで買ってきてくれる。
顔はイケメンの部類に入るし、温厚で気が利く。女子が喜ぶツボを押さえているのに、なぜ、独身なのだろう。やはり薄給のせいなのだろうか。
「アネモネ、すぐに用意するから、ちょっと待っててね」
「はぁーい」
あっという間に着替えを終えたソレールは、アネモネが失礼極まりないことを考えているなど露ほどにも思っていないようで、笑顔でキッチンに足を向けた。