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儚 (はかな)
#ダーク
649
怒気に満ちた、耳障りなヒールの音が廊下から響く。
(母后イザベラ……!)
私はアレクシス様の手を握る手に力を込める。
「私は何があっても殿下の味方です」
扉が、勢いよく開かれた――。
次の瞬間、部屋の隅に控えていた侍女のイヴの顔がみるみる蒼白になり、恐怖に怯えるように後ずさった。
「何をしている! 呪われた悪魔に近づくでない!」
開かれた扉の向こうに立っていたのは、銀髪碧眼の優雅な王妃――母后イザベラだった。しかし、その高貴な美貌は今、激しい怒気によって自身こそ悪魔であるかのように歪んでいる。
隣にいるアレクシス様が、びくりとかすかに肩を震わせた。
けれど、私は少しも怯まなかった。すっと背筋を伸ばし、深く息を吸って、落ち着いた声で返す。
「王妃様、失礼ですが……」
「黙れ! 魔力もない小娘が、忌まわしき者に何をするつもりだ」
イザベラは私の言葉を遮り、鋭く詰め寄ってきた。その瞳には、私への底知れない蔑みが宿っている。
私はアレクシス様の前に一歩踏み出し、彼女の視線を真っ向から受け止めた。そして、静かに、しかし断定的に告げる。
「殿下は汚くなどありません! 決して!」
「……っ」
アレクシス様が息を呑む気配が伝わってきた。
生まれてからずっと、誰からも庇われず、否定され続けてきた彼。自分のために誰かが毅然と言い返してくれるという初めての経験に、その美しい瞳が驚愕に揺れている。
だが、私の言葉はイザベラの怒りに油を注ぐ結果となった。彼女は完全に激怒し、その双眸に苛烈な炎を宿す。
私はさらに一歩、前へ出た。
私を支えるのは、前世で貪るように読み漁った、現代医学の膨大な知識だ。今世の、聖女としての魔法など持たなくても、私にはこの頭脳がある。
「王妃様。殿下の健康状態は非常に深刻です。このまま劣悪な環境に放置されれば、いずれ遠からずウイルスや細菌による感染症に侵されます」
「ウイ……? 何じゃ、それは。呪いのひとつか? 馬鹿なことを言う。病など、魔法で治せばよいではないか」
イザベラは鼻で笑った。この世界の人間は、どんな病や怪我も「回復魔法」という奇跡がすべてを解決してくれると盲信している。
「いいえ。感染症とは、魔法では対処しきれない類いの疾患です。目に見えない微小な病原体が体内を蝕むのです。清潔な環境、適切な栄養、そして十分な睡眠。これらこそが、王子の免疫力を高め、病を遠ざける唯一の確固たる手段なのです」
私が医学的に淡々と説明を続けると、イザベラは忌々しげに顔をしかめ、私を一蹴した。
「魔力もない小娘が何を言う。小賢しい」
(この方は……自分の子どもの健康や命なんて、何とも思っていない。それよりも自分のプライドが大切。そして、自分の所有物でありレプリカでもある次男ジャンに王位を継がせることしか、頭にないのだわ)
母后イザベラは冷酷非道。正ヒーローであるジャンの母親でありながら、彼女を嫌うプレイヤーも多かった。
私もゲームをプレイしていた時は、ただの胸糞悪い毒親だと思っていたが、その設定の裏側と、目の前で剥き出しにされる悪意を精神医学的に分析すると、彼女の歪んだ行動原理がはっきりと見えてくる。
イザベラは、大国である聖カトミアル王国の出身だ。
ゲームの制作会社のサイトに載っていたキャラクター紹介では、彼女自身も故郷では決して幸福な姫君ではなかった。有力な後ろ盾のない彼女は、「力こそ正義」という過酷な価値観を骨の髄まで叩き込まれて育ったのだ。
そして、野蛮な辺境国と蔑むこのアヴァロニアに、厄介払いのように嫁がされた。
傷つき、肥大した自己愛を守るため、彼女が縋ったのは、自らの血統の象徴である「銀髪碧眼」という外見的特徴だけだった。
だからこそ、この国の王族の遺伝的特徴を強く持つ黒髪を戴いて生まれた第一王子アレクシス様を、自分の汚点として忌み嫌った。
母国に誇りを持つ彼女にとって、黒髪は「悪魔の証」であり、忌むべき辺境の血そのものだったからだ。
一方で、自分と同じ銀髪碧眼を持って生まれた次男のジャンを、彼女は狂信的なまでに溺愛した。ジャンを愛しているのではない。
自分に似た美しい人形を愛でることで、故郷では決して得られなかった万能感を満たし、自己愛を補填しているに過ぎない。
(典型的な、自己愛性パーソナリティ障害の防衛機制ね……)
私は内心で、冷徹な診断を下す。彼女にとって、アレクシス様は一人の人間ではなく、自分のプライドを傷つける不良品でしかない。だからこそ、平然とネグレクトし、虐待を続け、存在そのものを否定し、これでは健康が損なわれると伝えても眉一つ動かさないのだ。
ゲームの中で彼女が巡らせていた陰謀のモノローグが、私の脳裏に鮮明に蘇る。
彼女はこれから、ヒロインであるマリアの強大な魔力に目をつけ、彼女を「第二王妃候補」として祭り上げながら、マリアの歪んだ嫉妬心を巧みに煽って私たちを追い詰めていくはずだ。 その果てに待つのは、心を完全に破壊され、絶望の底で魔王として覚醒するアレクシス様の姿――。
(そんなこと、絶対にさせない)
怒りでギリッと奥歯が鳴りそうになるのを、私は必死で堪えた。
目の前にいるのは、生まれ育った環境の被害者であり、同時に、その連鎖を最悪の形で我が子にぶつけている加害者だ。
しかし、悲しい過去があるからといって、アレクシス様から笑顔と未来を奪う権利など、この女には絶対にない。
(これは言葉の虐待だ。ガスライティング。何度も何度も、幼い頃から『お前は汚い』『お前は魔王だ』と言い聞かせることで現実の認識を歪め、本人の自己肯定感を完膚なきまでに破壊している……!)
私は静かに深呼吸した。
怒りに任せて言い返したい衝動を、医師としての理性が抑える。
目の前の女性を、私は憎んでいない。
正確には――憎む気持ちが芽生えるたびに、その奥にある「なぜこうなったのか」という問いが、感情を上塗りしていくのだ。
これが医師という職業の、ある意味での業かもしれない。
加害者の行動原理が見えてしまうから、単純に憎めない。けれど、理解することと、許すことは、全く別の話だ。
イザベラの過去がどれほど過酷だったとしても、アレクシス様の人生を破壊する権利など、誰にも存在しない。
私は、彼女ではなくアレクシス様の隣に立つことを、改めて心に刻んだ。
「随分と強く出たものよ。妹の聖女と違って、魔力も持たない小娘が」
――魔力も持たない。
イザベラの言葉が、私の胸を切り裂く。
……私、リリアも言葉の虐待の餌食だった。
イザベラの言葉が引き金となり、私の意識は急激に過去へと引き戻された。
視界が歪み、脳裏に実家であるリリエンタール伯爵家の、広大な庭園が浮かぶ。
フラッシュバックだ。
私はまだ八歳。そして妹のマリアは六歳だった。
「まあ、マリアよ! なんて素晴らしい回復魔法だ」
「このように強い魔力を持つとは。聖女候補に選ばれるのも時間の問題だ」
庭園の中心で、妹のマリアがその小さな手から温かな光を放っていた。彼女の魔力を受けて、枯れかけていた花々が次々と息を吹き返した。
庭園には、マリアの魔力の恩恵を受け、大輪の薔薇が咲き誇る。両親はマリアを抱き上げ、惜しみない賛辞を送っていた。
「すごいわ、マリア」
「うふふ。そうかしら?」
誇らしげに笑うマリア。
「ええ、立派な魔力よ。本当にあなたは自慢の娘だわ。ねぇ、あなた」
「ああ」
「わたくし、聖女様になれるの?」
「きっとなれるさ」
「ええ、マリアならなれるわよ」
一方、私は庭園の隅のほうで、一人しゃがみ込み、泥に塗れながら一輪の枯れた花を握りしめていた。
「父上、母上……私は……? 私は聖女さまになれないの?」
必死で魔力を絞りだそうとする。
けれど、私の指先からは何も生まれない。枯れた花は、無慈悲にも黒ずみ下を向いたままだった。
カサリと乾いた音を立てて、花びらが舞い落ちる。
「お姉様はわたくしのようにはできないの?」
無邪気に、しかしその奥に蔑みを含んだ笑顔で私をじっと見つめるマリア。
「あら、リリアはそんなこともできないの?」
母の、温度の全くない冷淡な視線。
「マリアほどにできないのはともかく、まったく魔法が使えないのではな。リリエンタール家の長女としてこれでは困ったものだ」
父は、期待値と現実のギャップに心底失望したような溜め息を吐きながら頭を抱える。
「これでは、嫁ぎ先を探すのも一苦労だ」
「まさか、魔力を持っていないなんて……、ごめんなさい、あなた」
「いや、お前のせいではない。マリアはこんなに素晴らしい魔力を持っているのだから。マリアを産んでくれてありがとう」
「あなた……」
(私には……足りない。魔力が。才能が。親の期待に応えられない。私は、何ひとつ、持っていない……)
深い無価値感に苛まれていた幼い頃の記憶。
ハッと我に返ると、そこは現在のアレクシスの寝室だった。目の前では、まだイザベラがヒステリックに怒声を上げている。
けれど、今の私はあの無力な八歳の子供ではない。
私は、隣で耐えるように唇を噛み締めているアレクシス様を見つめた。
彼の瞳の奥にある、過去の私と同じ、深い「否定」と「無価値感」。
(私が来たからには、絶対に、あなたを魔王になんてさせない!)
胸の奥から、熱い情熱がせり上がってくる。
「推しを魔王になんてさせない……! ええ、絶対にさせないわ! 私が、アレクシス様の側にいます」
気づけば、私は声に出して呟いていた。
「何をぶつぶつ言っている! 気味が悪い小娘よ」
イザベラが私を睨みつける。
私は彼女の視線を真っ向から射抜き、凛とした声で宣言した。
「私には現代医学の知識がある! 魔法なんてなくても、私は私の運命を切り拓いてみせるわ!」
一切の怯えを見せず、真っ直ぐに自分を見据え返す私の瞳に、イザベラは毒気を抜かれたように息を呑んだ。
(この人は……本当に、俺のために……?)
と同時に、アレクシス様の瞳には、驚愕を超えた、深い信頼の感覚が宿るのが分かった。
おそらく、生まれて初めての……。
「……好きにすればよい。呪われた者同士、泥を啜って生きていくがよいわ」
イザベラは吐き捨てるように言うと、呆れたように部屋を去っていった。だが、その去り際の冷ややかな視線の裏には、私へのかすかな警戒が宿っているように見えた。
気のせいだろうか。
バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。
部屋には静寂が戻った。
私はまだかすかに震えているアレクシス様に近づくと、彼の傷ついた心を包み込むように、優しく微笑みかけた。
「あなたを魔王になんてさせないから」
誓いを込めた私の言葉に、アレクシス様は驚いたように目を見開いた後、消え入りそうな声で、けれどはっきりと応えてくれた。
「……ありがとう」
それは、彼が生まれて初めて、誰かに自発的に口にした感謝の言葉だった――。
*
その頃、城の喧騒から離れた城下町の市場では、行き交う人々の間で、不穏な噂が囁かれ始めていた。
「最近、ひどく咳き込む人が増えているという話だ」
「ああ、それと。ゴミ捨て場に汚らしいネズミを異常に多く見かけるようになったな……」
「そういえば聞いたか? 隣国との国境近くの村で、原因不明の熱病が出たらしい……」
不気味な噂。
その時、かつて私がファンサイトや攻略サイトを巡って貪るように読んだ、このゲームの背景知識が頭をよぎった。
(確か、ゲームの年表では……一年後、ここで中世の黒死病のような、大流行が起こるんだわ!)
流行病という名の、真の絶望の足音が、すぐそこまで迫っていた。