音楽棟の廊下に足を踏み入れたとき、
ふと空気が変わった気がした。
雨に濡れたスニーカーが
床に柔らかい音を立てる。
ピアノ室のドアの前に立つと、
薄い壁の向こうから、
ポツリポツリと音が聞こえてきた。
ひとつずつ、慎重に、
言葉を選ぶような旋律。
けれど、途中で止まった。
音が途切れた後の静寂が、
やけに苦しかった。
ノックする代わりに、そっとドアを開ける。
ケビンはまだ背中を向けたまま、
動かずに座っていた。
窓の外は雨。
灰色の空と、ガラスを流れる雫。
冷たい景色のなかで、
彼の肩だけが妙に細く見えた。
「……やっぱ、音だけじゃなくて、
君の手も好きだな」
つい、口から出てしまった。
彼の指が鍵盤の上で
微かに震えたのが見えた。
でも、振り返った顔は
あいかわらず無表情で、
けれどその中に、
何か言いたげなものがにじんでいた。
「急に来ないでよ。びっくりする」
その言い方に、少しだけ安心する。
ケビンは怒ってるときほど、
感情が言葉に出るから。
「でも音聞こえたからさ。
つい。
俺、雨の日のピアノ、めっちゃ好きかも」
彼は視線を外して、また鍵盤を見つめた。
俺には、それが“逃げ”に見えた。
けど、無理に引き戻したくはなかった。
ケビンは、こっちから近づきすぎると、
すぐ遠くへ行ってしまうから。
「……君といると、うるさいんだけど、
静かなんだよね」
その一言に、思わず笑ってしまった。
「うるさいって、ちょっと傷つくな」
「そういう意味じゃない」
ケビンは笑った――
ほんの一瞬だけ、口元がほどけた。
それだけで、今日ここに来た
意味があったと思えた。
でも、次の言葉が胸に刺さる。
「……なんで、僕に構うの?」
静かで、でも明らかに迷いのにじんだ声。
それはたぶん、
自分が彼にとって“怖い存在”に
なっているってことだった。
「んー……なんでだろうな。
たぶんさ、君の音が、
俺の“速さ”を止めてくれるから、かも」
俺はいつも走ってばかりだった。
チームの中でも、授業でも、
期待を超えることばかりを求められて。
でも、あの音を聞くと、ふと立ち止まれる。
勝ち負けも評価も関係ない、
まっさらな時間に戻れる気がする。
だから、彼のそばにいたかった。
でもそれを言葉にするのは、
想像以上に難しかった。
ふと、ケビンが窓の外を見た。
雨が、彼の瞳に映っていた。
まるで、そこにしか逃げ場がないみたいに。
この人の距離は、
きっと誰にも踏み込めない。
でもそれでも、俺は――
「……また、来てもいい?」
そう尋ねると、ケビンは返事をしなかった。
ただ黙って、鍵盤の上に手を置いた。
雨の音と、白い光と、音のない優しさが、
その部屋を満たしていた。
コメント
1件
書くのお上手すぎません、!?!?!?続き楽しみに待ってます🙇👍