春の風は、優しいようでいて、
どこか落ち着かなかった。
音楽棟の前の桜が風に揺れて、
花びらが地面に舞っていた。
ケビンは楽譜を胸に抱え、
音楽棟を出たところで、
いつもの声を聞いた。
「ケビン! こっち!」
史記が、いつものように
手を振って笑っていた。
バスケ部のジャージ姿、無邪気な笑顔。
だけど――今日は、隣に数人の男子がいた。
背が高くて、声が大きくて、
見た目からしてバスケ部の仲間だと
すぐにわかった。
「うちの天才ピアニスト~!」
「なになに、彼氏か~?」
からかいのような声が飛んだ。
冗談まじり。
でも、その無神経さが、
ケビンの胸に突き刺さる。
史記は笑いながら、
「ちげーし!」と 返していた。
でも、それはいつもの軽さじゃなかった。
ほんの一瞬だけ――
彼が「否定した」ことに、
ケビンの心は揺れた。
(やっぱり、僕たちの距離は、
外では「そういうもの」なんだ)
苦しくなったのは、そのあとだった。
週末、実家に帰ったときのこと。
母親がふと、言ったのだ。
「ねえ、ケビン。
大学で“変な関係”とか
してないでしょうね?」
「変なって……?」
「最近ニュースでよくあるじゃない。
同性の子同士でね、
ちょっとおかしな仲になるとか……
あなたは、ちゃんとしてる子だと
信じてるけど」
言葉が、針のようだった。
ピアノよりも、拍子よりも、
はるかに繊細な感情が、心の奥でちぎれた。
(“ちゃんとしてる子”でいるためには、
僕は、史記に触れられない)
そう思ったときから、
ケビンは史記の連絡に応えなくなった。
ピアノ室に来ても、鍵を閉めた。
コンペの準備にも集中できず、
指先は思うように動かなかった。
そして――
演奏会。
練習していた曲を弾きながら、
途中で指が止まった。
真っ白なライト、静まり返る会場。
どこにも史記はいなかった。
でも、そこに彼の「不在」がいる気がした。
控室でひとりきりになったとき、
口からこぼれたのは――
「……君が、いなければよかった」
誰にも聞かれなかった言葉。
だけど、それは自分自身を壊すのに、
十分すぎるほどの破壊力だった。
ケビンは、その夜から、
ピアノに触れなくなった。
静かで、何も響かない日々が始まった。