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「久しぶりだね、兄さん」
ポジティブマンが副会長室の扉を開けると、兄・吾妻勇太は顧問弁護士の川尻と真剣な話し合いをしていた。
「吾妻常務。どういったご用件でしょうか」
最初に言葉を発したのは川尻弁護士だった。
「兄が生きて帰ってきたので訪ねてきました。昨日家にも戻りませんでしたので」
「公私混同されてはなりませんよ、常務。ここは会社です」
「冗談と本心とを混同しないでくださいよ、川尻さん。仕事の件できたに決まってるでしょう」
「それなら話が通じますね。ご覧のとおり、副会長は非常にお忙しい。現在100件を超える企業訴訟を緊急に対応する必要がありましてね。法的な問題は、常務にとってもよいものではないでしょう」
「しつこくは言いません。席を外してください」
「外すのはそっちだ」
黙って座っていた吾妻勇太が冷たく言い放った。
彼の視線は川尻弁護士ではなく、勇信に注がれている。
「兄さん、俺に出て行けって言ってるのか」
「おまえ以外に誰がいる」
勇太の表情には、弟に対する情などまったく感じられなかった。その目は今まで見たことないほど乾いていた。
ポジティブマンはいたたまれない気持ちをぐっと押し込んだ。
「さあ、常務。副会長がおっしゃったように、すぐに部屋から――」
「席を空けなさい、川尻弁護士!」
ポジティブマンは叫んだ。
「ああ、あうわ……」
川尻弁護士は怯え、勇太に救いの視線を送った。
「少しだけ席を外してください。5分で済みますので」
勇太が短いため息をついた。
川尻弁護士が去ると、勇太と勇信は向かい合って座った。
「兄さんが生きていて本当にうれしいよ。忙しいのはわかるけど、どうして昨日帰ってこなかったんだ? 家族のみんなは今朝になって、はじめて兄さんが生きてることを知ったんだ」
「仕事の件じゃなかったのか」
勇太は頬にできた大きな傷を指で掻いた。
「川尻弁護士を追い払うためだ……。仕事の前に、俺たちは兄弟だ。無事でよかったって一言くらいいいじゃないか」
「不要だ。俺はおまえの兄である前に、吾妻グループの総帥だ。下落した株価を回復させる義務がある」
勇太はひどく痩せこけ顔色が悪かった。しかし彼が変貌したと感じる要因は、そこではなかった。
鋭い目つきや冷淡な態度。
そして何よりも家族を大切にする温かい口調が消え去っていた。
「わかった。家のことは後でいい。なら仕事について言いたいことがある」
ポジティブマンは否定的な気持ちになりかけたが、表情には出さなかった。
「俺の決断に何か不満でもあるのか」
「そうして突っかかるような口調はやめてくれないか」
「口調などという無意味なものに焦点を合わせるな。俺の決断に不満があるか聞いてるんだ」
勇太はソファから立ち上がり、デスクに向かって歩きだした。
「不満というよりは、今日の政策発表についてもっと十分な検討が必要だったんじゃないかと思ってね」
ポジティブマンは携帯電話を確認した。
メッセージアプリには、他の勇信からの意見やアドバイスはきていない。
「検討か。十分な検討はなされたが――」
勇太はそうつぶやいたあと、宣言するように言った。
「なぜ公開処刑のようなことをしたかって言いたいのか? そして俺が行おうとする改革が、恐怖政治だとでも言いたいのか? ふざけるなよ、勇信。吾妻グループが国内トップ10で停滞している理由を、おまえは深刻に捉えたことがあるのか。これまでのようにダラダラとやってたら、吾妻グループは5年をもたずして崩壊してしまうぞ」
「だからといって、あまりに極端すぎたんじゃないか? 社員の幸福を維持することも、経営陣が留意すべき基本原則だろ。それをあんな奇襲作戦みたいなやり方で押し通したら、社員の不安が募るだけであって他に益するものなんてない」
「この平和好きめ。おまえも死の峠を超えてからもの言うんだな。俺はもう昔の勇太ではない。おまえが知るかつての兄は、もう死んだと思え」
「なんでそんなこと言うんだ。兄さんを失って、俺たちがどれだけ苦しんだか少しは考えてくれよ!」
――兄さんの死を知って、俺たちは増殖をはじめたんだ。
いっそそうぶちまけてしまいたかったが、無論ポジティブマンにそんなことができるはずもない。
「過去を見つめて何になる。おまえもさっさと現実を直視して、やるべきことをやれ。無駄な議論をするために入ってこずにな」
勇太がデスクの内線を押した。
待っていたかのように、榊原秘書室長が執務室に入ってきた。
「常務を外へお連れしてくれ」
「わかりました、副会長」
「兄さん、ちょっと落ち着けよ。事を急げばきっと足元をすくわれる。頼む、兄さん」
「吾妻常務。今すぐ退出をお願いします」
「わかった。俺に触れないでください」
腕をつかもうとした榊原秘書を振りほどき、ポジティブマンは部屋を出た。
去り際に兄を確認すると、勇太の視線はすでに裁判書類に注がれていた。
その夜もまた、吾妻勇太は家族のもとには帰らなかった。
家族の夕食があるため、勇信を代表して「沈思熟考」が本邸を訪れた。
テーブルの上には豪華な料理が並ぶが、家族の誰も一切手をつけなかった。
「勇太兄さんは忙しくて帰ってこれないだけです。今日少し話しましたんで、あまり心配しないでください」
「溜まった仕事に追われてるのは仕方のないことです。ただ、生きていて本当によかった」
義理の姉、吾妻美優が暗い声で答えた。
「パパにあいたいよ」
娘のさくらが目に涙を浮かべている。
沈思熟考は長い沈黙の中で考えた。そして席を立って、さくらを抱きしめた。
「パパもさくらに会いたいって言ってたよ。でも本当に忙しくて、今日だけ我慢してほしいってさ。明日はぜったい帰ってくるから。あと少しの辛抱だよ」
「イヤだ!」
「今日我慢できたらパパがプレゼントを買ってくれるってさ。デパートに行って、さくらが欲しがってたおもちゃをパパと一緒に選べばいい」
「ほんと?」
「うん、どの色にするかちゃんと考えておくんだよ」
沈思熟考は携帯電話を取り出し、つなげっぱなしの電話を切った。それから吾妻グループが運営するオンラインショッピングモールのページに入って、さくらにおもちゃの一覧を見せた。
隣では母の吾妻恵が魂の抜けたような顔で座っている。
「お母さん。そうがっかりしないでください。裁判案件が多く、忙殺されているんです」
「わかってるわよ。生きてるだけでも喜ばしいことってくらい。これまで周りに苦労をかけたんだから、何日かは死ぬほど働かなきゃでしょうね。
……ふん、死ぬほどとか言っちゃった。縁起でもない」
吾妻恵はひとりそうぼやいたあと、ワインではなく焼酎をあおりはじめた。