二月の半ば。
当初は年明け早々と思われていた宗親さんの神代組退職だけれど、思いのほか引き継ぎに時間を要して。
梅の花が満開を迎えるころになってやっと。宗親さんはオリタ建設の副社長に戻られた。
私も宗親さんの後を追うように、入社して一年も経っていなかった神代組を後ろ髪を引かれながら辞めたのだけれど。
結果的にはそれで良かったのかもって思っています。
***
「春凪、ただいま」
帰宅するなり玄関先で私をギューッと抱きしめて。
宗親さんがまるで丸一日離れていたすき間を埋めるみたいに私の髪の毛に鼻を押し当てて大きく息を吸い込んだ。
「ああ、春凪の匂い、やっぱりいいなぁ。――すっごく落ち着きます」
これは一緒に働くことが出来なくなってから、毎日のように繰り返される帰宅後の儀式。なのに私は全然慣れることが出来なくて、未だにやたらと照れてしまうの。
「あ、そうだ。これ」
宗親さんは手にしていた小さな紙袋を私に差し出すと、
「今日は明智からプロセスチーズの味噌漬けと、酒粕漬けを勧められたんだ」
それを受け取った私ごと、再度ギュッと抱き締めていらした。
転職なさってからずっと帰りが遅かった宗親さんが、今日は珍しく早くに戻っていらしたのは明智さんに呼ばれたからかな?
そんなことを思うと同時、何だか凄く愛されているのを実感して慣れない感覚にむず痒くなってしまう。
宗親さんは、クリスマスの夜にハイランドホテルの一室で、お取り寄せの高級チーズ
・二十二か月熟成したオレンジ色のフランスチーズ『ミモレット』
・夏に搾った牛乳だけで作ったチーズ『コンテ・エスティーブ』
・フレッシュチーズのひとつであるブリア・サヴァランにレーズンをたっぷりとまぶした『プチ・テオドール』
・トリュフ入りのゴーダチーズ『ゴーダ・トリュフ』
・山育ちの羊乳チーズ『オッソー・イラティ』
で私を思いっきり喜ばせて下さったのに、今みたいに何でもない日にも当然のように私に珍しいチーズを買って来て下さるから。
「あ、甘やかしすぎですっ」
思わず照れるあまりそんな憎まれ口をたたいてしまった。
「春凪、素直じゃないですね。そこは一言、『有難う』でしょう?」
抱き締められたままクスクス笑われた私は、消え入りそうな声で「有難うございます」ってつぶやいた。
「よろしい。――じゃあこれは夕飯後に食べようね」
まるで神代組で管工事課長をなさっていた時みたいに私の頭をポンポンと撫でると、「先に風呂へ入って来ますね」とおっしゃってから、ふと不安そうに私の顔を覗き込んできた。
「――っ」
急に至近距離で見詰められたことにドギマギしたら、「春凪、何だか顔色が悪い気がするんですけど……僕の気のせい?」とか。
私、努めて普通にしていたつもりなのに、宗親さんは本当に侮れない。
このところ何となく身体が重だるくてしんどかったんだけど、今日は特に辛くて。
「あ、あの……。ちょっとだけ身体が気怠くて」
夕飯も作るのが辛かったから、夕方にパン屋さんに出向いてデニッシュパンのサンドイッチを買って来てしまった。
「今日は朝から春凪が何となく覇気がなさそうに見えて……気になって早めに仕事を切り上げさせてもらったんだけど。……正解だったな」
今し方渡されたチーズは、元気がなさそうに見えた私のために、明智さんに頼んでオリタ建設まで届けに来てもらったらしい。
このところ連日のように二十二時を過ぎていた宗親さんが、今日は十九時前に帰宅なさったのはそういうことだったみたい。
申し訳なさに眉根を寄せて、「一日中家にいるくせにごめんなさい」って謝ったら「そんなの関係ないでしょう? 調子悪い時は遠慮なく僕に頼ってくれていいんです」って抱きしめる腕に力を込められた。
「春凪は体調不良でもお構いなしに無理しすぎるところがあるから」
それが、宗親さんとの結婚を機に仕事を辞めなくてはいけなくなった理由だったことを思い出した私は、面目なさに縮こまる。
「身体も少し熱い気がするけど……熱は測ってみた?」
「あ。熱は大したことなくて微熱程度です。けど、何だか気持ち悪くて……。だからごめんなさい。夕飯も、せっかく買ってきてくださったチーズも、今日は食べられそうにないです……」
実はお昼も食べられなかったけれど、それを言ったら宗親さんを必要以上に心配させてしまうかも知れないと思って言わずにおいたんだけど。
力なく笑って宗親さんを見上げたら、「ねぇ春凪。もしかしてそれって……」と真剣な顔で見詰められてしまう。
宗親さんがいつになくソワソワなさっている気がして(そんなに心配なさらなくても少し寝たらきっと治りますよ?)なんて思いながらキョトンとしたら、「ひょっとして生理が遅れたりしてないですか?」って……。
――えっ!?
(言われてみたら今月の予定日っていつだった……?)
仕事を辞めてからあまり手に取らなくなってしまっていた手帳をいそいそと開いてみたら、予定日を二週間以上も過ぎてしまっていることに今更のように気が付いて。
「あ、あの……宗親さん……私……」
私の表情ですべてを悟ったらしい宗親さんが、
「検査薬買ってきます」
腕時計にちらりと視線を落としてから、そうおっしゃって玄関に踵を返した。
近所のドラッグストアは十九時閉店。今はまだ十八時半過ぎだから、急げばきっと間に合うはず。
***
クリスマスイヴ。
プレゼントに香水をお渡しした私をお風呂場で愛してくださった宗親さんは、超高級ホテルのスイートルームでも、まるでその延長みたいに明け方まで何度も何度も求めてくださって。
気が付けば私、足腰が立たなくなるほどになってしまったのだけれど。
考えてみたらあの日以来、宗親さんは私との行為に避妊なんてしていなかったのだ。
情交の後、膣内からトロリと溢れ出てくる温かな感触にも、今やすっかり慣れっこになってしまっていた。
そんなだったのに。
自分自身妊娠の可能性にもっと早く気付くべきだったと、己の不甲斐なさに呆れながらそっと下腹部を撫でる。
(赤ちゃん。いてくれるといいな)
触れる手のひらに、ありったけの願いを込めた。
***
「春凪さん、いらっしゃるー?」
宗親さんが検査薬を買ってきてくださって、夫婦二人して検査結果に固唾を呑んだあの日からずっと。
『オリタ』で秘書をやっている宗親さんの妹・夏凪さんが、夕方にちょいちょいマンションに遊びに来てくださるようになった。
きっと帰りが遅くなりがちな宗親さんが、私を気遣って夏凪さんに訪問をお願いしているんだろう。