テラーノベル
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夜は、まだ完全には明けきっていなかった。
王太子府の裏手は静かだ。人の気配は薄く、草の先に残った露だけが白い。
縫季は、東の塀際に立っていた。
風はない。なのに香の流れだけが、かすかに揺れている。
見えない波だ。鼻ではなく、もっと奥で分かる。
(……戻ってきてる)
一度切ったはずの甘さが、遠くでまた立ち上がっている。薄い。だが、今度は前より静かだ。
医官府の裏を通る流れではない。市井へ散る配給の筋でもない。
もっと細く、もっと深く。王太子府へ向かっている。
縫季は目を閉じた。
香の先を辿る。
中庭をかすめ、回廊の下を這い、夜露に紛れて流れていく。人の手で運ばれたというより、置かれたものが滲んでいる。
残り香ではない。誘導だ。
黒闢は、帝辛の崩れに気づいた。
清朗が抜けた。祭祀が割れた。子嘉が動いた。
王太子の孤独が、表へ出た。
そこへ、もう一度甘さを差し込むつもりだ。
縫季は壁から背を離した。
自分の足が、どこへ向かうか分かっていた。東ではない。市井でもない。
帝辛のいる方だ。
行って、確かめる。必要なら切る。今度こそ根から。
そう考えた瞬間、胸の奥が静かに熱を持った。
去ると決めた者の熱じゃない。戻る者の熱だった。
(……一度だけ)
言い訳みたいに浮かぶ。一度だけ。これだけ確かめたら。これだけ片づけたら。
その時。
白い圧が、背中に落ちた。
冷たい。
夜気とは違う。骨の内側に直接、重さが乗る。
縫季は立ち止まった。
「……来ると思った」
返事はない。言葉ではないからだ。
ただ、空気の密度が変わる。王太子府の石も、草も、朝露も、一瞬だけ『記録』に戻る。
管理官からの照合香波だった。
姿は見えない。だが、香波の向こうに人の気配がある。
白い層が、世界の薄皮一枚ぶんだけ近づいている。
縫季は振り返らない。
「黒闢が動いた」
圧は揺れない。
「帝辛の崩れに気づいた。甘さが戻ってきてる」
「今度は配給じゃない。もっと細く、もっと奥だ」
沈黙。
それから、思考ではなく意味だけが落ちてくる。
――深く入るな
縫季の喉が、小さく鳴った。
「行ける奴が俺しかいないなら、俺がやるしかない」
――それはお前の任ではない
「任じゃなくても、やる」
その瞬間。
別の波が来た。
白くはない。もっと細く、冷たく、長い時間の匂いがする。
香ではなく、影のような揺れ。
九尾だった。
見えない。だが、縫季の右側で気配が立ち上がる。
管理官の香波が制度の重さなら、九尾はもっと生き物めいている。静かだが、黙ってはいない気配。
縫季は目を細めた。
「……お前まで来るのか」
返るのは声ではない。頭の奥に、爪先でひっかくみたいな感触。
――去ると答えたのは、お前だろう
管理官の香波。九尾の気配。その間に、自分だけが立っている。
「変わった」
――何が
「帝辛が」
思ったより静かに出た。言い訳でもなく、報告みたいな声だった。
「清朗が抜けて、祭祀が割れて、子嘉が動いて」
「それでも立ってる」
九尾の気配が、わずかに揺れる。
――だから何だ
縫季は返さない。返さなくても、自分で分かっている。
だから、放っておけない。だから、去れない。だから、今また帝辛の方へ足が向いている。
九尾の気配が少し近づいた。
――その王を守りたいのか
縫季は答えない。
――それとも――その王に選ばれたいのか
胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
縫季は目を閉じた。
「……分かってる」
ようやく、それだけ言えた。
白い圧も、影の揺れも、黙っている。
「……それでも、見て見ぬふりはできない」
その瞬間、掌が冷えた。
鋭く。短く。
世界線が、反応した。
『やる』と口にしただけで、線が揺れる。まだ何もしていないのに。
縫季は掌を見た。冷えはすぐに引かない。
管理官の警告が落ちる。
――そこで踏み込めば
――次はお前の任務接続を切る
縫季は、少しだけ黙った。
九尾の気配は、何も言わない。その沈黙が、むしろ答えに近かった。
切られる。世界線のために。帝辛のために。清朗のときと同じように。
その位置に、今度は自分が立つ。
「……分かってる。……だからって……」
「何もしないわけにも、いかないだろ」
東の空が、少しだけ明るくなった。朝が、本当に来る。
王太子府の屋根が白み始める。その向こうに、帝辛がいる。
今も、たぶん一人で立っている。何も知らないままではない。それでも、全部は知らないまま。
縫季は、ようやく足を動かした。
帝辛のいる方へではない。その手前へ。
王太子府の外周を巡る回廊へ向かう。まず流れを確かめる。どこまで戻っているか。誰が運んでいるか。その先を見てから決める。
少なくとも、まだ完全には越えない。
それだけだった。
背後で、白い圧が少し遠のく。九尾の気配も、薄くなる。
だが消えない。
監視ではなく、見届ける気配だった。
縫季は歩く。
去るための足取りではない。残ると決めたわけでもない。
そのどちらでもない、いちばん危うい歩き方で。
朝の光は、廊下の端を静かに舐めていた。
コメント
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第51話、読み終わりました……縫季の「戻る者の熱」という感覚がすごく胸に残りました。去ると決めたのに、それでも帝辛の方へ足が向いてしまう。その葛藤の描き方が繊細で、彼女の内側の熱がこっちまで伝わってくるようでした。管理官と九尾、二人の気配に挟まれながらも「何もしないわけにはいかない」と踏みとどまる姿に、静かな力強さを感じます。何よりタイトルの「危うい歩き方」が、この一歩を踏みしめるような話の空気にぴったりで、ぞわっとしました。続きが気になります……!
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