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#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
夜明け前、王太子府の外周はまだ薄暗かった。
壁沿いの石は夜気を残し、草の先には露が沈んでいる。鳥はまだ鳴かない。人の足音も遠い。
縫季は回廊の影に身を寄せていた。
香の流れが、そこだけ不自然に濁っている。甘い。だが、安堵配給で市井に撒かれたそれとは違う。もっと薄く、もっと静かで、だからこそ厄介な匂いだ。
(……ここだ)
柱の根元。石と石の継ぎ目に、黒ずんだ粉が詰められている。目で見れば、ただの泥にしか見えない。だが縫季の鼻と掌は知っている。
狂楽香を焼き切った後に残る「核」だ。これを夜露に溶かし、朝の湿りに乗せれば、通る者の呼吸に細く入り込む。市井に撒く必要はない。王太子府の内側、限られた者だけへ届けばいい。
黒闢らしい。
縫季はしゃがみ込んだ。袖の中から短い刃を抜く。切るための刃ではない。削ぐためのものだ。
石の継ぎ目に刃を差し込み、黒い粉を掻き出す。掻き出した端から、甘い匂いが立つ。夜気に触れて、煙にもならず溶ける。
(あと二つ)
流れは三本ある。一本はここ。残りは回廊の角と、井戸の縁だ。
縫季は立ち上がった。
背後の空気が、かすかに揺れた。
人の気配。息遣い。足音は静かだ。静かすぎて、かえって分かる。
振り向く前に、声が落ちた。
「また一人で動いているな」
帝辛だった。
縫季の肩が、ほんのわずかに強張る。
振り返る。
夜明け前の薄い光の中に、帝辛が立っていた。朝議前の軽い衣。髪はまだきちんと結い上げる前なのか、いつもより少し柔らかく見える。
怒っている顔ではない。問い詰める顔でもない。
ただ、「見つけた」という顔だった。
「……殿下こそ」
縫季は刃を袖へ戻した。
「朝からこのような場所を」
帝辛は石の継ぎ目へ目を落とした。掻き出された黒い粉。縫季の指先。それだけを見て、だいたいを察したようだった。
「仕事熱心だな」
その声が、やけにいつも通りで、縫季は返事に一拍遅れた。
「殿下の国ですから」
言ったあとで、胸の奥が静かに痛んだ。もう自分は去るはずなのに。まだそんなことを口にしている。
帝辛は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そうか」
一歩、近づく。回廊の柱一本ぶんの距離。
「なら、助かる」
その笑みは小さかった。大げさではない。だが、縫季が知ってしまっている「いつもの笑み」だった。
その瞬間。
掌が、冷えた。
今までとは比べものにならないほど鋭く。骨の中へ直接、氷を流し込まれたみたいに。
縫季の息が止まる。
(まずい)
白い圧が、頭上から落ちた。
見えない。だが分かる。
緊急帰還機構だ。
今度は警告ではない。任務継続の閾値を超えた仮身に対する、自動帰還処理だった。
足場が消えていく。縫季の輪郭だけが、この世界から薄くなっていく。
「縫季?」
帝辛の声が、遠くなる。
細く、冷たく、長い時間の匂い。
九尾の気配が混じる。
縫季は歯を食いしばった。
「まだ……完全には越えていない」
白い圧は止まらない。
指先から感覚が遠のく。足元の石が、もう石ではない。ただの「記録」へ戻りつつある。
帝辛が、目の前にいる。
ほんの数歩先。届くはずの距離。
「縫季!」
今度は、はっきり聞こえた。
初めて聞くくらい、切迫した声だった。
縫季は顔を上げた。
帝辛の顔が見える。驚き。怒り。そして、理解できないものを前にしたときの痛み。
言わなければならない。
何か。
今ここで。
胸の奥で、何かが暴れた。
だが、それはもう遅い。
「……笑って、いろ……」
やっと出たのは、それだけだった。
白い圧が、喉まで満ちる。
足場が消える。
落ちる、のではない。この世界から、ずらされるだけだ。
最後に見えたのは、帝辛の目だった。
まっすぐこちらを見ている。怒ってはいない。もう笑ってもいない。
ただ、失うと知った者の目だった。
その視線が、胸に刺さる。
次の瞬間。
縫季の姿は、音もなく掻き消えた。
露だけが揺れた。
回廊に残ったのは、掻き出された黒い粉と、朝になりきらない薄い光だけだった。
◆
帝辛は、その場に立ち尽くしていた。
伸ばしかけた手を、まだ下ろせない。
何もない場所を見ている。
そこに縫季が立っていたことを、身体だけが覚えている。
「……縫季」
今度の声は低かった。確認するような声だった。答えの返らない問いだと分かっていながら、口にせずにはいられない声。
沈黙。
帝辛は、ゆっくりと手を下ろした。
石の継ぎ目に視線を落とす。黒い粉。甘い匂い。縫季が何をしていたのか、その断片だけが残っている。
縫季は消えた。だが、仕事の跡だけは残した。
帝辛の喉が、静かに動く。
怒りではない。恐れでもない。
もっと深いところで、何かが確かに切られた感覚だった。
朝の最初の鳥が鳴く。
夜明けが来る。
何事もなかったように、王太子府の朝が始まる。
帝辛はしばらく動かなかった。
やがて、掻き出された黒い粉へ手を伸ばしかける。だが、触れる前に止めた。
縫季なら、たぶん止める。
そう思った。
帝辛は目を閉じ、一度だけ息を整える。
そして、静かに背を向けた。
朝議の時間が近い。
王太子は消えた者を追えない。追ってはならない。
それでも。
回廊を離れる直前、帝辛は一度だけ振り返った。
もう誰もいない場所へ。
何も言わず。
ただ見た。
それだけで、十分に遅かった。
コメント
1件
うわ……第52話、めちゃくちゃ切なかったです……。縫季が「笑っていろ」って言い残して消えるところ、胸がぎゅっとなりました。帝辛の“失うと知った者の目”も刺さるし、朝の光と静けさが逆に痛い。二人の距離、もう少し近かったのに、届かなかったのがもどかしい……。この回、ずっと覚えてます。