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青視点
…聞こえとるねん。ヘタレで悪かったな。
内心でないこへ向けて毒づき、後ろ手にリビングのドアを閉める。
当然電話をかけるべき相手なんているわけもなく、手にしたスマホを持て余してまたポケットへとしまった。
何で、あいつは好奇心だけでここまでできる?
付き合うといっても「お試し」なのに、手が触れるとかバックハグしながら映画を見るとかキスをするとか…、そんなことまで気持ちがなくてもできるなんて一体どういう神経なのだろう。
自分には全く理解できない。
ここ数日でないこが試みようとしたことを全てスルーしたのは、あいつのぶっ飛んだ思考とその好奇心が恐ろしかったからだ。
誘われるまま手を出すなんて絶対できない。自分のタガが外れるのが怖い。
傷つけるのが怖い、怖がらせるのが怖い。
今は好奇心だけで動いているだろうあいつのあの目に、怯えるように見られたくはない。
…だから、俺は100になれないなら0で良かったのに。
自分の感情が表に出るのが怖くて、俺はその全てが露わにならないように気をつけていた。
一緒に過ごす間も、絶対にないこには触れない。
泊まりで寝るときも、1つのベッドの上で2つの布団にそれぞれくるまる。
背を向けて横になった自分の後ろ側に、視線が突き刺さる気がしたときもあったけれどそれら全てに気づかないふりをした。
「まろちゃん最近寝れてる?」
何日経った頃か、事務所の作業部屋で資料に目を通していた時にしょにだに声をかけられた。
「寝とるよ? 何で?」
分厚い資料を1枚1枚めくりながら、細部まで目を通す。
そんな俺に苦笑いを漏らしながら、しょにだは自分の目元を指さした。
「この辺に疲れが出とるもん。大丈夫?」
「え、そんなひどい?」
確かに最近熟睡できているかというと怪しい。
週末はないことどちらかの家に泊まることが増えたし、前より考え込むことが多くなったせいだろう。
しょにだと俺の会話を聞いていたりうらも、身を乗り出してこちらの顔を覗きこんできた。
「…ほんとだ、疲れてそう」と首を竦めてから立ち上がる。
俺が座る椅子に歩み寄ってきながら、「まろ、髪伸びたよね」と最年少は突拍子もない発言を繰り出した。
「え? あぁ、ライブのこと考えるとあんまり短くできんし」
「サラリーマンらしからぬ髪型になってきたよなぁ」
しょにだも笑いながら同調してそう言う。
りうらはというと、俺の横に立ってこちらに手を伸ばしてきた。
昔は会社員らしく清潔感ある短めだった髪が、今では耳も隠れるし襟足も長めだ。
「ねぇまろ、ちょっと髪いじっていい?」
その俺の髪に触れながら、りうらがそんな言葉を口にした。
「え?」と首を傾げながらそちらを振り返る。
椅子に座った態勢から見上げると、微かに口元に笑みを浮かべていた。
「最近ほとけっち短くしちゃったからつまんないんだよね。あにきは長くて色々できるから楽しいけど、いっつもやってるし。今度はまろの髪型もいじれそうだなぁと思って」
「メンバーをおもちゃにすんなよ」
「りうちゃん人の髪触るん好きやもんなぁ」
俺の言葉に続き、しょにだが笑う。
そう言えば長い待ち時間なんかがあるとき、よくあにきの髪をポニーテールにしたり三つ編みしたりして遊んでいたっけ。
「俺、今はこの資料に目通さなあかんねんけど」
そう言ったけれど、りうらはもう既に自分の鞄を探り出していた。
ポーチの中からコームやヘアピンの束なんかを取り出す。
「いーよ、じっとしててくれればそのままで」
俺の隣に戻ってきて、そう答えながらその手にワックスを取った。
両手で伸ばしてから、俺の髪に触れる。
「髪触られるとさぁ、ちょっと気分落ち着かない?」
ワックスをつけて髪のまとまりをよくしながら、りうらはふとそんなことを口にした。
俺が何かを答えるより早く、向かいの椅子に座ったしょにだが「あぁ分かる」と小さく頷く。
「美容院とかでも眠くなったりするよなぁ」
「でしょ。あれなんなんだろうね。人間の本能に近いのかな、安心するっていうか」
…あぁ、それで。
1,063
りうらが人の髪をいじるのが好きなのは本当だけど、今はきっと俺のためなんだろう。
目に見えて疲れているこちらを少しでも癒そうとしたのかもしれない。
「…なまいき」
ふ、と笑って呟くと、その囁きを聞き逃したらしいりうらが目を丸くする。
「え、何?」
「いいや、なんも」
しょにだとりうらが俺を心配してくれたことは伝わってきたから、とりあえず今はされるがままになっておく。
再び資料に視線を落とした俺に、りうらは構わず作業を続けた。
俺の右側の髪をコームを使って束を作り、丁寧に捩じってピンで止めていく。
さすがにやり慣れているだけあって手際がいい。
鏡がなく直接見えはしないけれど、てきぱきと進めていくのが分かる。
「お、まろちゃんサイドの編み込み似合うやん」
その様子を飽きもせずずっと眺めているしょにだがニヤっと笑って言う。
「そう? そんなんやったことない」
「まろいっつもせいぜい外ハネくらいだもんねー。今日は片側だけ編み込みするね」
ぐいっと引っ張られては捩じられるを繰り返す。
確かに、疲れてるときに身を委ねて髪を触られると心地良いかもしれない。
今にも訪れそうな睡魔に抗うように小さく欠伸をする。
その間も鼻歌まじりに作業するりうらは本当に楽しそうで、あっという間に完成させてしまった。
「できた、しょにだどう?」
「似合う似合う」
しょにだが手を叩いてりうらに答えながら、自分の手持ちの鏡を俺に差し出してきた。
それを受け取ろうとした瞬間、部屋のドアが前触れもなく開かれる。
「おつかれー」という少し掠れた声に、3人で同時に振り返った。
そこにいたのはないこだった。
一斉に振り返った俺たちの視線に気づき、顔を上げる。
そうしてこちらの様子を視界に止めてから、大きく目を瞠った。
…ほんの、瞬きする程度の一瞬だけ。
「ないくんも見てよ、まろのサイド編み込みにしてみたんだけどどう? かわいくない?」
気のせいだったんだろうか。
りうらがそう言ったときには、ないこはいつも通りの表情だった。
言われるがままに俺に視線を移し、それからにっこりと笑う。
「ほんとだ、いいじゃん。似合う」
目を細めて口角を上げ、整った顔が笑うと破壊力がある。
…はずなのに、何故かこの時俺は違和感しか覚えなかった。
能面に張り付けたような笑顔。
目はちゃんと笑っているはずなのに、まるで感情がないみたいな。
「しょうちゃん、そう言えば向こうの会議室でいむが待ってたけど行かなくていいの?」
自分の荷物を一番手近の机に下ろしながらないこはそう言う。
そんな言葉を受けて、しょにだは壁にかかった時計に目線を送った。
時刻を目に留めてから、「…やば!」と勢いよく椅子から立ち上がる。
「時間過ぎとった! ありがとないちゃん」
「りうらも行かなきゃ」
子供組で何らかの打ち合わせがあるのか、りうらもそう言って手早く道具の片づけを始めた。
ポーチを突っ込んだ鞄を手に、しょにだを追いかけるようにして立ち上がる。
台風のように2人が去った後、嘘のような静寂が訪れた。
しんと静まり返った部屋に、ないこがノートパソコンを開く音が響く。
カタカタとすぐにキーボードの打ち始めるその横顔を見据えてから、「…ないこ?」と声をかけた。
「…何?」
低い声が返ってくる。
想定していなかったその這うような響きに思わず息を呑んでしまった。
「……どしたん、何かあった?」
「別に?」
画面を見つめたまま、短い返事だけ寄越される。
後ろに疑問符を付けて返ってくる言葉が、その言葉通りに受け入れられるわけがなかった。
「いや絶対何かあったやん。何? 仕事関係?」
重ねてそう尋ねた瞬間、バチィっと大きな音が響いた。
ないこが力任せにエンターキーを押した音だ。
「……」
くるりとこちらを振り返り、ピンクの髪が揺れる。
そのまま椅子から勢いよく立ち上がったないこは大股で俺の方へと寄ってきた。
歩調が決して軽くないことから、そこに苛立ちが混じっていることくらいは読み取れてしまう。
「…ない…」
呼びかけようとした俺は、その名を最後まで紡げずに飲み込んだ。
俺の前まで来たないこはバッと足を開いて、椅子に座ったままの俺の膝の上に跨いで乗る。
向かい合う形でそのピンクの瞳を見上げると、それは不機嫌そうに揺らめいて見えた。
次の瞬間、俺が言葉を継ぐよりも向こうが動く方が早かった。
俺の髪をぐっと鷲掴みするようにして、顔を寄せる。
「…っ」
唇が触れ合いそうになった瞬間に、思わずそこに手を滑り込ませた。
もう少しで重なりかけたそのないこの唇を左手で押さえる。
ぱちりと一度深く瞬きをしたないこが、それからすっと目を細めて身を引いた。
少し離れてできた空間に安堵して俺も手を下ろす。
そんなこちらの表情を読み取られたのか、ないこは次の瞬間には目を剥いた。
「お前がこの前先にしたんじゃん、俺のこと好きって言ったんじゃん。なのに何なんだよ。何で今はできないわけ? 何で俺に指一本も触れられないわけ?」
怒りを露わにした語気で口早にそう告げられる。
言われた言葉の意味を整理しようと頭を働かせるけれど、驚きの方が大きかった。
瞬発力もなく返す言葉が出てこない。
そんな俺の髪に、ないこがもう一度手を伸ばした。
「…い…っ」
そこにつけられていたピンを、一気に2,3本勢いよく引き抜かれる。
ぐいと引かれる瞬間に痛みが走り、思わず眉を寄せて悲鳴にもなりきれない声を上げた。
そんな俺に構わず、ないこは抜いたピンをそのまま床に叩きつけた。
りうらが丁寧に止めてくれていたはずの髪は支えを失い、ぱさりと下りる。
瞠目する俺に一瞬泣きそうな…それでいて怒りを抑えきれない目を向けたないこが、そのまま俺の膝の上から下りた。
また大きく踵を鳴らしながら、乱暴にドアを開いて部屋から出て行ってしまう。
「…は、…何なん…」
床に叩きつけられたピンを、戸惑いながらも一本ずつ拾い上げた。
疑問を投げかけた呟きは当然誰の耳に留まることもなく、返る答えがあるわけもない。
りうらが整えてくれた髪はぐしゃぐしゃになってしまって、残された他のピンも、仕方なく全部自分で引き抜いた。