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その帰り道。僕はまた、あのイベントホール横の遊歩道を歩いていた。
と言っても、昨日までとは違って鬱々とした気分ではなくて、楸さんがいったいどこへ消えてしまったのか、そのことばかりを考えていた。
あの後、僕はもう一度屋上を一回りしてみたのだけれど、どこにも誰の姿も見えなかった。
フェンスは二メートルを超え、上部が内側に曲がっているうえに、そこには有刺鉄線が張り巡らされているので容易に越えられるものではない。
本当に、霧のように、消え去ったとしか思えなかった。
そんなはずはない。けれど、そうとしか思えない。
でも、やはりそんなはずはなくて――
僕は何度も何度も首を捻りながら、例のベンチに腰かけた。
目の前では、今日もあの女性が川辺に立ち、歌を歌っていた。
不意に涼しい風が吹き抜け、女性の束ねた髪をゆらゆらと揺らしていく。
女性はやはりこちらに背を向けたまま、胸に手を当てるようにして、綺麗な歌声を響かせ続ける。
実に心地よいその歌声に、僕はしばしの間、楸さんの事やこれまでやらかしたミスの事、同棲している彼女とのことをすべて忘れて、身をゆだね――そして重たい瞼を、そっと閉じた。
「もしもーし、もしもーし」
軽く肩をゆすられ、僕はゆっくりと瞼を開いた。
また、いつものように眠ってしまったらしい。
よほど疲れてんだな、僕。
そう思いながら、僕は軽く眼をこする。
それからぼんやりとした視界の先、何か白いものが目の前にあって――
『ギャアァ――――!』
「うわああああぁあ!」
その大きな白い鳥(オウム?)の鳴き声に、僕は思わず叫んでいた。
オウムはバサバサと羽を羽ばたかせると、近くの樹上へと飛んでいく。
その後ろ姿を、まだドキドキしている胸を撫でながら眺めていると、
「目、覚めました?」
そう声を掛けてきたのは、あの女性だった。
女性はそれまで被っていた麦わら帽子を脱ぐと、にっこりと微笑み、
「ここ数日、よくここで寝てらっしゃいますよね。お疲れですか?」
言って、僕の隣に腰かけてきた。
ふわりと香る、甘い匂い。
「え、あぁ、はい」
僕はたじろぎながら、小さく頷く。
「何か悩み事でも?」
女性に問われて、僕は思わず首を傾げた。
「――どうして?」
う~んと女性は少し考えてから、
「そんな顔してらっしゃるので」
「そんな顔?」
思わず僕は、両手で顔をさすっていた。
そんな僕を見て、女性はくすりと笑い、
「私でよければそのお悩み、お聞きしますよ。話をするだけでも、いくらか気持ちは晴れると思いますし」
「いや、でも……」
僕は口ごもりながら、彼女の顔に目を向ける。
歳は恐らく、僕とそんなに変わらないくらい。
陽は沈み薄暗がりの中、街灯に照らされた彼女の顔は白く美しかった。
均整の取れた顔立ちで、紅い唇が優しげな微笑みを湛えている。
とても惹きつけられるその佇まいに、僕は何度か口をパクパクさせてから、やがて、
「――仕事で、色々あってさ」
と、ゆっくりと、話し始めた。
……どれくらいの間、彼女に話を聞いてもらっていたのかは解らない。
気づくと僕は、仕事の失敗だけでなく、頑張れば頑張るほど空回りしてしまうこと、そんな自分が同棲中の彼女と果たして結婚なんてできるんだろうか、というそんな悩みまで打ち明けていた。
その間、女性は口を挟むことなく、ただ頷きながら、黙って僕の話を聞いてくれていた。
やがてすべてを話し終えてから、少し間をおいて、
「その悩みや気持ち、彼女さんにちゃんと言ってます?」
と、女性は川に顔を向けながら、そう訊ねた。
僕は首を横に振り、
「あぁ、いや……」
「カッコ悪いと思ってる?」
「それもあるけど、変に心配させたくないから……」
「でも、それで気持ちの行き違いがあったら、それこそ結婚どころか、別れるきっかけになるかもしれないんですよ?」
「――え?」
僕は思わず目を見張り、女性の方に顔を向けた。
女性も僕の方に振り向くと、
「本当にあなたのことが好きなら、彼女さんも分かってくれると思いますよ。あと、仕事もです。変に肩ひじ張らずに、もう少し、気を緩めてもいいんじゃないでしょうか」
力抜きすぎてもあれですけど、と女性は小さく笑った。
僕はすっかり暗くなった夜空を見上げながら、小さくため息を吐き、
「確かに、そうかもしれない」
失敗をするのが怖くて、変に力を入れて、その所為で失敗して、また力を入れて――そんな悪循環に陥っているのだとしたら、どこかで一度リセットする必要があるかもしれない。
……いや、事実、楸さんも言っていたじゃないか。
『早く帰ってゆっくり休みなさい』
『今のあなたの仕事は、まず体調を整えて、スランプから脱すること』
あれは、そのままの意味だったんだ。
それなのに、悲観的に捉えて、うじうじして、我がことながら、なんとも情けない。
彼女も多分、僕のこの気持ちを受け止めてくれると思う。
だって、もう何年も付き合っていて、今では同棲もしているのだ。
だから、きっと――
「ありがとう、話を聞いてくれて」
礼を述べる僕に、女性はこくりと頷くと、
「少しは楽になりましたか?」
「うん」
「よかったです、お役に立てて」
それから女性は「そうだ」と両手を合わせると、
「もし今後も何か困ったことがあったら、是非うちのお店に来てください」
そう言ってどこからか取り出したのは、『魔法百貨堂』と印字された小さな紙きれ――名刺だった。
店名の下には、『楸真帆』という名前のみ。
場所はおろか、電話番号すらそこには記載されていなかった。
ただその名刺からは、女性と同じ、どこか甘い香りが感じられた。
「楸、真帆? これが、君の名前?」
僕はその名前に、少し驚く。
楸さん――主任の楸加奈さんと同じ苗字だったからだ。
なかなか珍しい苗字だし、もしかして、楸さんの親戚――或いは妹さんだろうか。
けれど女性は軽く首を横に振ると、
「あぁ、いえ、私はそこのバイトで、那由多茜っていいます。今、真帆さんは此道に出張に行ってるんですよ、全部私ひとりに任せて。ひどいと思いません?」
茜さんはそう口にして、可愛らしく頬を膨らませて愚痴るのだった。