ツトムは大垣とともにエレベーターに乗り込んだ。
沈黙が流れる鉄の箱には、ぼりぼりと頭を掻きむしる音だけが響いている。
下降するエレベーターが3階で停まると、仲のよさそうな3名の社員が乗り込んできた。
「あ、社長! 今日はまだ飲みに行ってないんですね」
若い社員が、気軽に大垣に話しかけた。
一緒に乗り込んだふたりも、うんうんとうなずいている。
「おまえらまさか、ろくに仕事もできない人材どもか? とっとと退社しろ」
大垣が本気で怒った。
「承知しました!」
3名の社員が声を揃えると、エレベーター内にはどっと笑い声が溢れた。
その笑い声に誇張や斟酌(しんしゃく)がないことを、ツトムは直感で嗅ぎ取った。
美濃輪雄二を会社に残し、大垣とツトムは外にでた。
広がる環七通りは、まるで道路が生まれる前から渋滞していたような混み具合だった。
ツトムは早足の大垣について、歩道橋を渡って道路の反対側へと移動した。
目のまえには、CJルートの社長室から見た備前レンガ造りのシェアハウスがそびえ立っている。
「オーナー、すいませんが少しお待ちください」
「ああ、かまわんぞ」
大垣は理解を示すようにうなずいては、頭を掻きむしながら環七通りに目をむけた。
シェアハウスの建物をまえにしたツトムは、不思議な光景に目を見張った。
1階にはふたつの店舗が並んでいる。
そのうちすでに閉店した洋菓子店『クレームフレーシュ』ははっきりと見える。
しかし隣のイタリアンレストランのほうは、まるで店全体が濁った水に沈んだようにひどくぼやけていた。
ツトムは店の正面に立ち、設計者が現場確認を行うように細部に目をやった。
ライトに照らされた扉や、店名が掲げられた看板など、どれをとっても焦点が合っていないようにおぼろげだった。
ツトムは目を閉じ、白石ひよりの豊満な胸を思いだした。
決して近づかず、そして離れず……。
一定の距離からひよりの胸をただ眺めては、また目を開けた。
すると店舗を構成するすべてが、鮮明に見えはじめた。
まるで何重にも重なったサングラスをひとつずつ外していくようだった。
スリ板ガラス加工が施された入り口や、看板に刻まれた店名。
それらがライトに照らされ鮮やかな色を放っていく。
本格イタリアンレストラン『ラ・コンナート』が全貌を現した。
「おい、ツトム。飲むまえにちょっとこっち寄るぞ」
大垣は洋菓子店『クレームフレーシュ』を指さした。
「あ、はい」
洋菓子店はすでに閉店していて売り場は暗かったが、奥の厨房にはうす明かりが灯っていた。
ツトムは大垣について建物の裏口へと回った。
中に入ると、製菓器具に囲まれた厨房が現れた。
中央には40台半ばほどのでっぷりと太った大男が、ステンレス台に肘をかけてパイプ椅子に座っている。
「よっこらしょ」
特注サイズであろうコックコートに袖を通した男が、声をあげて立ちあがった。
「紹介しよう。彼は神谷(かみや)ひさし、ここのパティシエだ」
「どうも、は、じめまして、神谷ひさしで、す」
パティシエというスマートな名称が似つかわない、吃音(きつおん)の男だった。
消化器官に問題を抱えたように血色が悪く、コックコートが純白なため浅黒い肌が際立っている。
「ツトム、おまえにいいものを見せてやりたくて、この糖尿病男に残ってもらったんだ」
大垣は親しげに神谷ひさしの背中をどんと叩いた。
「オオ、オーナー。ぼくは糖尿病ではな、くて、糖尿病寸前です」
「そうなのか? なら訂正させてもらおう。今日はツトムに会わせるために、この痛風男に残ってもらったんだ」
「オオ、オーナー……」
大垣はたじろぐ神谷ひさしを見て、屈託なく笑った。
あまりにぶしつけな大垣の言葉に対し、神谷ひさしはべつだん気分を害したようには見えない。
雇用関係だけでは成立しない、積み上げてきた親交の時間が伺えた。
大垣はおそらく痴呆症……。
そうした直感をツトムはここで改めた。
「おい、ツトム、これ食ってみろ」
大垣は神谷ひさしに断りなく業務用冷蔵庫を開け、一枚の皿を台のうえに置いた。
ラッピングされた皿には、イチゴのショートケーキが乗っている。
「ショートケーキですか」
「ああ、食ってみろ」
ツトムは言われるがままラップを剥がして口に運んでみた。
上品な生クリームの舌触りと弾力のあるスポンジが相まって、空腹時であるという掛け値なしにおいしい。
これを作ったのはあいつだと言わんばかりに、大垣は神谷ひさしにむけてアゴをしゃくっている。
……おいしい。
普段ケーキなどほとんど口にしないせいか、久しぶりの甘みにツトムの体は歓喜の声をあげた。
神谷ひさしは満足そうな表情を浮かべたあと、調理用ボウルを作業台に置き、そのまま裏口から外へとでていってしまった。
「神谷さんはどちらへ」
「ちょっとしたショーを披露するための準備にかかってる。それよりこのケーキ、もうないのか?」
大垣は冷蔵庫のなかを漁りながら言った。
「それをぼくに聞きますか?」
「おまえのほかに誰がいるんだ」
大垣はそう言って冷蔵庫をあきらめ、什器を見回した。
「おい、ほんとうにもうないのかよ……」
「しりませんよ……」
「クソが」
大垣がフォークを手にしてツトムのケーキに突き刺して食べた。
「あっ」
ツトムは無意識に声を漏らした。
「あっ、ておまえ、俺に盗られるのがイヤだったのか」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
「どうだ? めちゃくちゃうまいだろ、ここのケーキ」
大垣は少年のように笑った。
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