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「ただ、いま」
外にでていた神谷ひさしが厨房にもどった。
「南海さん、こっちにきてくだ、さい」
神谷ひさしはそう言って、おもむろにコックコートの袖をまくった。
露わになった腕は、刻み海苔でもまぶしたように多くの体毛に覆われている。
ツトムはそばに立って太い腕を見つめた。
「南海さん。もし見ている途中で、気分がわるくなっ、たら、いつでも逃、げてください」
神谷は、作業台の調理用ボウルのうえに毛むくじゃらの右腕を乗せた。
ツトムはわけがわからず、助けを求めるように大垣のほうを振りむいた。
「逃げるなよ、ツトム」
裏口近くのパイプ椅子に腰かけた大垣は、腕を組んだまま言った。
ふぅぅ……。
神谷ひさしは大きく深呼吸をしたあと、そのまま動かなくなった。
とつぜんの静寂が流れ、早鐘を打つツトムの心音だけが厨房内に響くようだった。
「では、はじめま、す」
ボウルに乗せた神谷ひさしの腕がぶるぶると震えはじめた。
振動に合わせ、ボウルとステンレス作業台が擦れてカタカタと音を立てた。
「うう、あうぅ!」
突然、神谷ひさしが断末魔のようなうめき声をあげた。
右の上腕部がみるみるうちに膨れあがり、神谷はそのままパイプ椅子にへたりこむ。
腫れは、どこかに激しく打ちつけたのとはちがっていた。
まるで新種の生物が皮膚の内側に生息しているような、非常識なふくらみだった。
新種の生物は徐々に腕を移動しながら、居住区を定めたように手首のあたりで止まった。
「うう、ぐがぁ!」
こぶしが今にも破裂しそうなほど膨らんでいる。
やがてぶるぶると震えたあと、手首がパックリと裂けた。
巨大な目が開くように。
がま口のように開いた手首の裂け目は真っ白だった。
まさか骨が!
ツトムは肝をつぶしたが、白い裂け目は、固体でも液体でもないゲル状の質感を帯びていた。
ぽた……ぽた……。
ゲル状の物質は、膿が絞りだされるようにボウルへと落ちていく。
それが神谷ひさしの脂肪分であると判断したツトムは、急激な吐き気に襲われた。
すぐに口を押さえて逃げだそうとした。
しかし鼻先をかすめたのは、芳醇なバニラエッセンスの香りだった。
「……生クリーム?」
ツトムは裂けた手首に視線を戻した。
「はい。そうで、す」
神谷の腕からとめどなく生クリームが流れ、ボウルのなかに収まっていく。
ツトムはかつて見たことのない異形なる絞り袋に、毛穴が開く思いだった。
「神谷さん。どういうことかわかりましたので、もうやめてくださってけっこうです」
ツトムの声は震えた。
「これ、3キロ出し切る、まで止まらないんです。長くはかからないので、待ってください。それとぜんぜん痛くな、いので心配しないでくださ、い」
「でもすごく苦しそうにしてるじゃないですか」
ツトムはたまらずうしろの大垣を見た。
パイプ椅子に座り腕を組む大垣は、目を閉じたまま安らかに眠っている。
「痛くあり、ません。ほんとうです」
「額に大量の汗が……」
「あ、秋はまだ暑い季節で、すから」
神谷ひさしは顔を歪ませたまま精一杯の笑みを作った。
額から一粒の汗が落ち、きめ細かな生クリームに小さなくぼみができた。
「ですが……最初から苦しそうな声をあげていたじゃないですか」
「ああ……ヒザに爆、弾を抱えているんです。それ、がすごく痛くて」
手首から生クリームを吐きだす怪奇なる右腕とはちがい、左手は優しく膝をさすっている。
手首からは途切れることなく生クリームが湧き、やがてボウルにはおよそホールケーキ12個分が溜まっていた。
「そろそろおわりま、す」
神谷の手首からすべての生クリームが絞りだされた。
するとクリーム自体が傷薬であるかのように、裂け目を回復させていく。
「ふぅ……」
と神谷ひさしはため息を吐いた。
それから手首が治ったのを確認し、こびりついた生クリームをぺろりと舐めた。
「南海さ、ん。ボクはいまからなにもしゃべ、れません。さ、ようなら」
「さようなら? どういうことですか?」
神谷ひさしは何も答えず、足もとに視線をやった。
下には3本のボトルコーラが転がっている。
それを作業台に置き、コックコートのポケットから厚手のゴム手袋をとりだして両手に装着した。
作業台のうえには、チリソースや醤油、コチュジャンにバーベキューソースといった、あらゆる調味料が、チェスの駒のように並んでいる。
「ちょっとごめんなさい」
突然、店の裏口からひとりの女性が入ってきた。
神谷ひさしとは異なるデザインのコックコートを着た女性だった。
両手に3枚の大皿を持ち、無造作に神谷ひさしのまえに置いくと、再び裏口からどこかへと消えてしまった。
「あり、がとう」
神谷ひさしは女性にではなく、並べられた料理にむけて言った。
その言葉を最後に、目に狂気を宿らせ、料理にむさぼりついた。
まるで3日ぶりの食事にでもありついたようだ。
フォークも箸も使わず、厚手のゴム手袋で食材をわしづかみにして口へと運んでいる。
「はい、ひさしさん。追加よ」
裏口から再びコックコートの女性が現れ、さらに3皿の料理を作業台に乗せた。
山盛りのパスタに白米、はじめて目にする食材など、計6皿もの大皿料理が神谷ひさしのまえに並んだ。
さきほどまで大量の生クリームは吐きだしていた神谷の手は、いまや効率的に口内へと料理を運ぶための輸送機になっていた。
「こんばんわ。私は五十嵐真由(いがらしまゆ)よ。よろしくね。あなたね、うわさのビッタは?」
「ビッタ?」
「あ、なんでもないわ」
五十嵐真由は腕を組んだまま、神谷ひさしのうしろ姿を見つめた。
「この人ね、作業が終わるといつもこうなるのよ」
「作業というと……生クリーム?」
「そう。店の大人気商品が作られる工程――」
「商品……」
店のケーキは、神谷ひさしの手からでた生クリームで作られたものだった。
毛むくじゃらの腕。
吐きだされた生クリーム。
イチゴのショートケーキ。
おいしいと言って食べた自分……。
ツトムの胃は間欠泉となって、胃酸を押しあげる。
「もうオーナー、また寝てる。起きてください」
五十嵐真由が大垣の肩をゆすると、大垣はカッと目を見開いた。
「おい、ケーキをくれ!」
「あまってるわけないでしょ。ここはウチとは真逆の大繁盛店ですよ。いつも通り、本日もすべて売り切れです」
「ケチケチすんじゃねぇよ。俺オーナーだぞ」
大垣が不機嫌そうに口を尖らせた。
「オーナーならここのケーキじゃなくて、ウチにきてあまった食材を食べてください」
――ねぇ、あなた、すごく背が高いのね。顔も悪くないじゃない。
!?
とつぜん大垣と五十嵐真由の会話をぬって、奇妙な声が割って入った。