コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
『黛を逮捕した』
昊輝の言葉に、安堵した。
『もう大丈夫だから、帰って来い。どうせ、桜とは会ってないんだろう?』
「……明日の便を予約するわ」
『わかった。気を付けてな』
桜には会った。
昨日。
黛がしたことと、置かれている立場を話した。
桜はあっさり、婚約解消に応じた。
もともと、口約束だけで正式な婚約ではない。ただ、桜に、二度と黛に近づかないように言い聞かせたかっただけ。
ただ、それだけ。
あの日。
雄大さんが刺されて病院に運ばれた日。
雄大さんが死んだら、私も死のうと思った。
黛も桜も殺して、自分も死のうと思った。
本気で。
雄大さんのご両親と澪さんに土下座しながら、ずっと思っていた。
そして、雄大さんの手術が終わって、眠る彼を見た時は本当に安心したし嬉しかった。
『かお……る……』
手に触れると、彼がかすれかけた声で言った。
『あい……して……』
その言葉だけで、充分だった。
『愛してる……』
その言葉だけで、生きていけると思った。
『私も……愛してる』
雄大さんの耳元にかがみ、囁いた。
『愛してるわ――』
私は、雄大さんとの別れを、決めた。
飛行機の中では、ずっと泣いていた。毛布にくるまって、声を殺して、何時間も。
もっと、触れたかった。もっと、キスしたかった。
もっと、愛し合いたかった——。
けれど、桜に会って、そんな未練は簡単に吹き飛んだ。
別れて……良かった——。
桜が、そう思わせてくれた。
心配してくれる真由には申し訳ないけれど、帰国を知らせなかった。雄大さんに知られたくなかった。
未練がないとはいえ、会えば気持ちが抑えられないとわかっていた。
帰国を知っているのに無視されても、悲しい。
自分勝手な感情の波に溺れないよう、私は昊輝以外には知らせずに帰国し、空港近くのホテルにチェックインした。
夜遅くに、昊輝が訪ねてきた。
「お帰り」
「ただいま」
「思ったより、元気そうだな」
「うん。なんか……吹っ切れた」
「そうか」
私はアメニティのティーバッグでコーヒーを淹れ、昊輝の前に置いた。私も自分のカップを持って、昊輝の正面に座る。
「で? これからのことは……予定通り?」
「うん」
「そうか」
「うん」
「なぁ、馨」
「うん?」
「結婚しないか」
え————?
耳を、疑った。
結婚……?
「聞き間違いじゃねーぞ?」
私の考えを察して、昊輝が言った。
「結婚しよう」
「なに……言ってるの? 冗談——」
「冗談だと思うか?」
私を見る昊輝の目は真っ直ぐで、吸い込まれそうになる。けれど、固く結んだ唇は微かに震えていた。その表情には、憶えがあった。
『俺と結婚してください』
四年前のプロポーズの時。
緊張し過ぎて息をするのも忘れて、私が返事をるまで顔を真っ赤にしてた。
あの時ほど、純粋に幸せを感じたことはなかった。
「どうして……今更……」
「今更だからだよ。もう、いいだろ。全部終わったんだ」
終わ……った?
「立波リゾートとか桜とか、全部忘れて俺と幸せになろう」
忘れて……?
「お前は桜のために頑張ったよ。けど、いくら頑張っても、桜はお前を苦しめるばかりだろう? 立波リゾートにしても、お前が責任を感じる義理はないだろ」
同じようなことを、三年前にも言われた。
「三年前は桜もまだ高校生だったし、お前が姉として守ってやりたい気持ちもわかった。けど、もういいだろ」
「そんなこと……」
「俺は今も、馨が好きだよ」
昊輝が立ち上がり、私の横で膝をついた。私の手を握る。
「結婚しよう」
懐かしい、感触。大きくて、固くて、温かい。大好きだった、昊輝の手。何度も触れた。何度も抱かれた、手。
けれど、昊輝の手に触れながら、私は雄大さんを思い出していた。
婚姻届を差し出された時も、こうして、雄大さんは私の横に跪いて、手を握ってくれた。
『俺が結婚したいと思うのは、お前だけだ』
こんな時に雄大さんを思い出すなんて……最低だ……。
「ありがとう、昊輝」と言って、私は彼の手を押し退けた。
「けど……ごめんなさい」
「俺じゃダメか?」
「ごめん……」
他に、言葉が見つからなかった。
散々、甘えた。
昊輝の優しさにつけ入った。
何度も、助けられた。
私を見る、昊輝の愛情に満ちた微笑みに救われた。
そのくせ、気持ちに応えられないなんて、虫が良すぎる。
最低だ。
だけど、違う————。
「もう、会わない」
「……本気?」
私は、頷いた。
「最後のお願い。もう、私に——」
言いかけた私の唇が、忘れかけていた懐かしい感触に塞がれた。
三年振りの、キス。
きつく抱き締められて、足掻いてもびくともしない。
懐かしいキス。だけど、知らないキス。
昊輝の、こんなに強引なキスを、私は知らない。
そして、こんな時でも、雄大さんを思い出してしまう。
雄大さんは強引だけど、こんなに一方的に感情を押し付けるようなキスはしない。始めはそうでも、すぐに優しくなる。
ぬるり、と柔らかい舌の感触にハッとした。
嫌だ、と思った。
「いっ——!」
痛みに、昊輝が私を手離した。その拍子に、尻もちをつく。
「ってぇ……」
手の甲で口を押える。
私は、思わず立ち上がり、昊輝から離れた。
「噛みつくほど嫌かよ」
「だって……」
大きなため息をつくと、昊輝はクスクスと笑いだした。
その声は徐々に大きくなっていく。そして、ハハハハハッと大笑いに変わった。
「この流れで噛みつくとか……ありえねぇ」
「は? プロポーズ断られてんのにキスする方があり得なくない?」
「それも、そうだな」
昊輝は立ち上がると、私に向かって両手を広げた。
「さよならのハグなら、いいだろ?」
『さよなら』という言葉に、身体がたじろぐ。
もう会わない、と言ったのは自分なのに、いざとなると怖くなる。
昊輝はずっと、そばにいてくれた。
実家を出た時も、義父が亡くなった時も、別れてからも、ずっと。
その、昊輝の手を放す——。