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室井の口元が歪む。
その一歩一歩が重く感じられ、まるで鎖を引きずるような足音さえ聞こえてきそうだ。
「むろ、い……さん…っ、?」
声がかすれる。
喉が張り付いたみたいで、まともな言葉が出ない。
「まったく、お前だけじゃない。部署の連中も全員俺を舐め腐りやがって」
室井の吐息が近づく。
生暖かい息が頬を撫でるようで、吐き気がこみ上げてきた。
反射的に一歩後ずさる。
「っ……!」
息が詰まり、胸が苦しくなる。
呼吸をするのも難しいほどだ。
パニックが俺を支配し始める。
「おいおい、そんなに怯えなくてもいいじゃないか?」
室井が手を伸ばしてきた瞬間──
咄嗟に体が反応した。
カバンの中で、指先が金属製の物体に触れる。
冷たい感触。
(そうだ……これがある)
尊さんに持たされていた護身用のスタンガン。
小さな黒い筒状のそれは、確かに俺の指先に触れていた。
最近、不審者による事件が多発しているからと、もしもの時の保険として渡されていたものだ。
(でも……これを室井さんに向けたら…俺が過剰防衛になるかもしれない…)
恐怖と理性が激しく衝突する。
スタンガンを握りしめようとする本能と、その後の結果を恐れる理性が俺の中で警鐘を鳴らし続ける。
しかし、室井の荒々しい吐息と、威圧的な眼差しが容赦なく迫ってくる。
「何考えてんだ?そんなにビクビクされちゃ傷つくなぁ…」
その言葉とは裏腹に、口元は嘲笑で歪んでいた。
手が、今度こそ俺の体に触れようと伸びてくる。
避けなければ──
そう思っても、脚が鉛のように重く感じられ、動かない。
絶体絶命だと思えた、そのとき。
「恋!」
聞き慣れた、けれど焦燥を滲ませた声が飛び込んできた。
声と同時に──背中に温もりを感じたと思った刹那、大きな腕が俺の腰に巻き付いた。
グッと強い力で引き寄せられる。
肩越しに見えるのは、見慣れたスーツの袖。
尊さんの匂いが鼻腔をくすぐり、俺の全身を包み込んだ。
「……っ」
抱き寄せられたまま首だけで振り向くと、そこには無表情な尊さんの横顔があった。
その漆黒の瞳は、鋭い刃のように室井を射抜いている。
「……うちの部下に、何かご用ですか」
その声は、まるで氷のように冷たく、それでいて俺の鼓膜を震わすほどの強さがあった。
俺を守るための、絶対的な意思の表れだ。
「はは…雪白、相変わらず他人頼りか?こりゃおもしろい」
室井が鼻を鳴らす。
尊さんの腕の中で、俺の体が微かに震えているのが自分でもわかった。
情けないほどの震えだ。
「すみませんが、お引き取り願えますか」
尊さんの声色がさらに一段低くなる。
背筋が凍るような威圧感。
こんな鬼気迫る尊さんを見るのは、俺は初めてだった。
「取引先とはいえ、業務時間外のプライベートな付き纏いは看過できません。雪白に危害を加える気ならそれ相応の措置を取らせてもらいますが…それはそちらにとっても良い話じゃないでしょう」
それは静かな宣告のような口調だった。感情的な怒りではなく、冷静な状況判断を下す一社員としての威圧感。
その圧力は、室井の感情論を上回るものだった。
室井の顔がみるみるうちに朱色に染まり、唾を飛ばす勢いで尊さんに詰め寄ろうとする。
しかし、尊さんは半歩も動かない。
微動だにしないその態度が、室井の焦りを助長させた。
室井が拳を握りしめたのが見えた瞬間──
尊さんの腕に、更に力が入るのを感じた。
「っ……尊さん……?」
思わず小さな声で尊さんを見上げると、耳元で囁かれたいつもの声よりさらに低い声音が響く。
「大丈夫だ…今は守られてろ」
その言葉に、安堵と共に胸の奥で恐怖が和らいでいく。
背中に伝わる尊さんの体温が、不思議と俺の心を落ち着かせてくれた。
「……チッ、ちょっとからかってやっただけだ」
室井が舌打ちすると同時に踵を返す。
捨て台詞を残し、その姿はあっという間に夜の闇に溶けて消えていった。
◆◇◆◇
室井の気配が完全に消えたのを確認してから、尊さんが深く息を吐いた。
その吐息で、俺もようやく全身の力が抜けていくのを感じた。
「尊さん……」
抱きしめられたままゆっくりと顔を見上げると、尊さんの眉間に深い皺が刻まれているのが見えた。
それは怒りと心配が入り混じった、複雑な表情だった。
「あの……助けてくれてありがとうござ──」
そう言った途端、緊張の糸が切れて脚の力が抜けそうになる。
グラついた俺を、尊さんは腰を支えるように強く抱き寄せてくれた。
「わっ…す、すみません」
言いながら、こんな時まで尊さんに頼ってしまう自分が情けなくなる。
けれど尊さんの腕の中で感じる安心感は、あまりにも心地よかった。
「……いつものことだろ」
尊さんは小さく溜息をつきながらも、俺の背中を優しく擦ってくれる。
その仕草があまりにも優しくて、張り詰めていた俺の涙腺が緩んでしまう。
「あの……スタンガン……」
俺はカバンの中に手を入れ、黒い筒を握りしめたまま、尊さんに見せた。
「護身用に渡してたやつか、使ったのか…?」
「持ってたんですけど…使ってもいいのか分からなくて…」
カバンの中で冷たく沈黙していた黒い筒。
尊さんに見せると、彼は微かに眉を寄せた。
「使わなくて正解だった」
「え?」
「恋がそれを室井に向けていたら、間違いなく過剰防衛扱いになったろうしな」
尊さんがため息混じりに言う。
「今は室井を刺激するような行為は慎んだ方が賢明だ」
「はい……だから、尊さんが助けてくれなかったら俺いまごろ……」
思わず言葉に詰まった。その時──
突然、尊さんの両腕が、先ほどよりも更に強く俺を抱きしめてきた。
「た、尊さん?く、苦しいです…っ」
「…悪い」
腕の力が少しだけ緩む。
俺は彼の肩越しに顔を覗き込んだ。
「…その、怒ってます、か?俺…迷惑かけてばかり、だから…」
「違う。恋が二度も傷つけられる可能性があったのが許せない……それだけだ」
低く呟かれた言葉には、深い感情が滲んでいた。
それがどれほど俺の心を揺さぶったことか。
俺を心底心配し、守ろうとしてくれている。
その事実だけで、胸が熱くなる。
「あとな、迷惑とか思うな」
「だ、だって…!尊さんに守ってもらってばかりで申し訳なくて、情けなくて…」
「言っとくが俺は、上司になって、恋人になってからもお前のこと情けないと思ったことなんか一度も無いぞ」
尊さんの言葉一つ一つが、冷え切った俺の心に温かい水が染み込んでいくように響いた。
「………よかった、です…そう言って貰えると、すごく安心します…っ」
そして俺も、自然と彼の背に腕を回してしまう。
この温もりが、今一番必要だった。
「尊さん……本当にありがとうございます」
「ああ……」
二人の体温が交差する中
しばらくお互い何も言わずに、ただ静かに抱きしめ合う時間が続いた。
夜風が木々を揺らす音だけが聞こえる静寂の中で。