それから1週間後───…
朝の光が薄く差し込むキッチンで、俺はいつものように朝食の支度をしていた。
昨日買ってきた食パンの袋を開け、コーヒーメーカーのスイッチを押す。
適当にテレビの電源をつけると、少し古びた液晶画面が賑やかな情報番組を映し出した。
その音はBGM代わりで、特に意識して聞いてはいなかった。
冷蔵庫から卵を取り出し、慣れた手つきでフライパンをコンロの火にかけ始めた
その瞬間
テレビから流れてきたアナウンサーの引き締まった緊張感のある声が、俺の耳に飛び込んできた。
《次のニュースです。連日都内で社会不安を引き起こし、特に文京区界隈で市民を恐怖の淵に陥れていた『文京区連続ケーキ通り魔殺人事件』の犯人が昨夜未明についに逮捕されました》
「……え?」
思わず、俺は全ての手を止めた。
フライパンが熱せられる「ジュッ」という音だけが響く。
まさか、このタイミングで?
慌ててテレビ画面に視線を固定する。
焼き始めていた卵がフライパン上で微かに焦げそうな音を立てているのに気づき
「あ、やばい」と焦りながら慌ててフライ返しでひっくり返した。
画面には、逮捕された被疑者の写真が大きく映し出されていた。
三十代半ばと推定される痩せ型の男性。
その表情はどこか覇気がなく、焦点の定まらない虚ろな目をカメラに向けているのが見て取れる。
《警察によると、逮捕された西田與一容疑者は市内在住の自称無職で、これまで文京区およびその周辺で発生した5件の殺人容疑と4件の暴行致傷容疑について聴取中とのことです。長期間にわたる捜査の末、ようやく事件は終結に向かうものと見られます》
(つ、捕まったんだ……本当に……)
ようやく、張り詰めていた空気が緩み、深く長い息を吐いた。
ここ1ヶ月、特に「ケーキ」である自分は、常に背後に潜む見えない危険を感じて怯えていた。
夜道を一人で歩くことも、少し人通りの少ない場所を通ることも、全てが恐怖の対象だった。
「よかった……」
思わず、心の底から漏れた呟きとともに、全身の力が抜けていくのを感じた。
額に滲んでいた冷や汗を手の甲で拭いながらも、込み上げてくるのは
事件の終結に対する深い安堵と、純粋な喜びが入り混じった複雑な感情だった。
フライパンの上の目玉焼きは、どうにか綺麗な形に完成した。
皿に盛り付けながら、俺の頭の中では、様々な考えが一気に駆け巡る。
(もうこれで、尊さんに心配を掛けずに済む!)
この朗報を早く尊さんに伝えたい気持ちでいっぱいだったが
まずは朝のルーティンを崩さないようにと冷静さを取り戻し、目の前の食事を用意することに集中した。
◆◇◆◇
会社での昼休み
俺はいつものように、尊さんと二人で会社近くにある小さな定食屋に向かった。
店内は狭く、歴史を感じさせる古めかしい木製のテーブルと椅子が規則正しく並んでいる。
壁際には、少し時代遅れのブラウン管テレビが置かれ
薄ぼんやりとした午後のワイドショーの画像が映し出されていた。
「尊さんも焼き魚定食ですか?」
尊さんにメニューを見ながら尋ねる。
「ああ、それで」
俺は短く答え、カウンター越しに注文を通した。
運ばれてきた湯気の立つ定食を受け取りながら席を探すと、幸い、奥の隅っこがちょうど空いていた。
「こっちだ」
尊さんが先に席に座り、いつものように隣の椅子を引いてくれる。
俺もその隣に腰を下ろし、香ばしい匂いがする温かいお茶を一口飲んだ。
熱さが体に染み渡る。
食事に箸をつけ始めた、そのとき。
店内のテレビから、朝聞いたばかりの聞き慣れた
少し大袈裟なトーンのアナウンサーの声が再び聞こえてきた。
《次のニュースです。東京都文京区で起きていた連続通り魔ケーキ殺人事件の容疑者として、西田與一容疑者38歳が逮捕されました》
「あ」
俺は、意図せず小さく声をあげてしまった。
味噌汁を口に運ぼうと持ち上げていた箸が、ピタリと止まる。
すると尊さんもちらりとテレビを一瞥し、表情を少し緩めて言った。
「そういえば、犯人掴まったらしいな」
「はい…!朝テレビで捕まったって知って、本当にほっとしました」
俺がそう返すと、尊さんは味噌汁に口をつけ、いつもの冷静な口調で続けた。
「最近は、お前が明らかに落ち着かない様子だったからな。まあ、これで少しは普通に戻れるだろう」
「はい!本当に尊さんには感謝するばかりですね。俺のせいで、夜の見回りとか、何度も送ってもらったり……」
「何を今さら」
尊さんは軽く笑い
「俺がしたくてしてたことだ」と付け加えた。
確かにそうだけど、それでも有難かった。
まだ6月だというのに、このわずか1ヶ月足らずで俺は尊さんに何度も心配をかけてきた。
自分が「ケーキ」として狙われるかもしれないという恐怖。
そして、室井のことも。
犯人が捕まったことで、ようやく心の奥底に沈んでいた鉛のような重荷がストンと下りたような気がした。
「いただきます」
改めて、心の中で手を合わせる。
今日のご飯は、なんだか特別に美味しく感じられそうだ。
◆◇◆◇
数分後──…
定食をきれいに平らげ、熱いお茶を飲み干した俺は、ふと思い出したように言葉を紡いだ。
「あっそうだ!尊さん」
尊さんが湯呑みを手に持ちながら「なんだ?」とでも言うように静かにこちらを見る。
「どうした?」
周りの客の賑わいが、ちょうど少しだけ静かになったタイミングだった。
俺は意を決して、思い切って口を開いた。
「今日の夜、会えますか?」
尊さんが、一瞬だけ僅かに眉を寄せる。
その表情に、俺の心臓は少しだけ速く脈打った。
「ああ。俺も誘おうと思ってたところだ、最近中々そういう時間も作れてなかったしな」
その答えに、安堵と喜びが混ざり合い
言葉が喉につかえる。
きっと今、俺の顔は真っ赤になっているに違いない。
「本当ですか!久々に…その……尊さんと、濃密なSMもしたいなって思ってて…!」
尊さんは一瞬黙った後
目元を緩め、楽しそうな表情を浮かべた。
「ふっ……随分我慢してたんだな」
「そ、そういうわけじゃなくて……!た、ただ最近はずっと事件のことで頭がいっぱいで、心配事ばかりで……そういう気分になれなくて」
周囲の視線を気にしながらも、声のトーンを落として続ける。
「でも今日は何かスッキリした感じがあって…尊さんのことももちろん癒したいと思ってるので……!」
「分かった分かった」
尊さんのその言葉に、俺の胸は高鳴り、全身に熱が回る。
「やった…!ありがとうございます……!」
嬉しさのあまり、思わず身を乗り出してしまった。
「それより今は午後の仕事だ。また夕方に連絡する」
「はいっ!」
席を立ち、伝票を持ってレジへ向かう尊さんを、一歩遅れて追いかける。
外に出ると、午後の陽射しが強すぎるほど眩しかった。
しかし、俺の心は既に夕方へと飛んでいた。
久しぶりの二人の時間。
そして、尊さんと過ごすあの甘くて激しい夜を想像するだけで、全身が熱を持つ。
犯人の逮捕をきっかけに、ようやく動き始めた日常の中で
俺と尊さん二人だけの特別な時間が、待ち遠しくて仕方なかった。
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