俺はもう二度と取り戻せない、平凡で幸せな日々を思いだし、ボロボロと涙を零した。
『は……っ、は……っ』
混乱した俺は、荒くなる呼吸を必死に落ち着かせようとする。
――――脳裏に〝あの瞬間〟が蘇る。
耳障りな音を立ててタイヤがアスファルトを擦り、人々が悲鳴を上げる。――――そして、母と小さなあかりは――。
鈍い音がして、母はあかりもろとも思いきり飛ばされた。
物凄い勢いでアスファルトに叩きつけられ、――聞きたくない、鈍い音がした。
その上をさらに車が走って、二人を引きずり――――。
『ぁ…………、あぁ…………。――――〝あかり〟…………っ』
体が震え、止まってくれない。
――恐い。
――誰か助けてくれ。
そう思うのに、今の俺には縋り付く相手が誰一人としていない。
――助けてくれ! 〝朱里〟!
その時、俺の脳裏に浮かんだのは〝朱里〟だった。
運命の夜に遭遇した、俺と同じ痛みを抱える少女。
あの子が側にいたら、きっと心の支えになってくれるのに――。
今度こそ守らせてくれるのに――。
『う……っ、――うぅ、…………ぅ……っ』
俺は会議室の壁にもたれ掛かり、うずくまって嗚咽した。
二十八歳の部長にもなって、大の大人が会社で泣くなんて――。
いつも俺を冷笑するもう一人の自分の声は、今日ばかりは元気がなさそうだった。
落ち着いたあと、俺はもう一度〝朱里〟の履歴書を見た。
『……あいつ、誕生日が十二月一日なのか。……まるで……』
――あかりの魂が入って、俺に会いに来たみたいじゃないか。
そんな世迷い言を呑み込んだあと、しばらく履歴書に貼ってある写真を見つめた。
似てないし、別人だ。
『……偶然が重なっただけだ』
言い聞かせるが、心の中で様々な妄想が広がっていく。
(もしあかりが生きていたら、朱里と同い年だ。今頃こうやって就活に励んでいたかもしれない)
俺はほろ苦い感情と共に涙を流して微笑み、指で朱里の写真を撫でる。
『……なぁ、朱里。お前の命を救えて本当に良かったよ。お前は俺の光だ。希望だ。……あのとき俺はお前に〝自分の道を歩め〟と言ったくせに、依存してしまいそうな自分を怖れたんだ。…………でも結局、俺は今…………』
絶望と悲しみにまみれた俺は、朱里の人生をねじ曲げ、自分のもとへ引き寄せてしまった。
『見守るだけだから。…………お願いだ』
呟いた俺は、うつろな目で写真の中の朱里に微笑みかけた。
**
新入社員には朱里と中村さん、もう一人の男性の計三名が選ばれた。
フロアで挨拶をする朱里の美女っぷりと巨乳具合を見て、男性社員の目の色が変わったのが分かった。女性社員は値踏みするように、ヒソヒソと何か言っている。
――こりゃあ、絶対に近づかないほうがいいな。
自分にはそのつもりはなくても、俺は女性社員に〝イケメン部長〟として狙われている。そのゴタゴタに朱里を巻き込む訳にいかない。
朱里には田村クンがいるし、浮ついた奴らも彼氏がいると知れば落ち着くだろ。
俺が朱里に部長として挨拶しても、彼女は名古屋での事を思いだしていないようだった。
あの時は暗かったし〝忍〟と名乗った。
八年も経ってるし、髪型や髪色も違う奴を同一人物だと思うのは難しいだろう。
まして〝忍〟が自分の上司となって現れるなんて、想像していないはずだ。
安心した俺は、部長の速水尊として朱里に接していく事にした。
一般社員の朱里と話す機会はそう多くなく、仕事で接した時は淡々と対応し、個人的に話しかけるのは控えた。
むしろ、朱里を前にすると余計な感情が溢れてしまいそうで、わざとムスッとして話しかけられないようにした。
それで〝怖い上司〟と思ったのか、彼女は俺を避けるようになった。
少し寂しいがそれでいい。
そんなふうに日々を過ごしていたが、母とあかりの命日に墓参りへ行った日、それまで小康状態になっていたものが、すべて破壊された。
コメント
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朱里ちゃんに特別な感情を抱くのは普通の事だよね。尊さん、もう抑えなくて良いんじゃ?とオバチャンは思うぞ。🤗
美人でボンキュッパッの朱里ちゃんはモテモテで尊さん毎日嫉妬と戦ってたんじゃなぁい? でも今のこの距離感はいいと思う。チャンスは逃さないように…