その年の母と妹の命日は、土曜日だった。
俺は起きて調子を整えてから、防音室で二人のためにモーツァルトのレクイエム、ニ短調『ラクリモーサ』を心を込めて弾く。
毎年十一月三十日の朝は必ずこの曲をオーディオ機器で流し、可能なら自分で弾くのが決まりになっている。
週末だったので、その日は母やあかりが好きだった曲を一日中弾き続けた。
墓参りに行ったのは、夕方になってからだ。
『…………どなたですか?』
青山霊園にある速水家の墓の前に誰かがいるのを見た俺は、いぶかしげな表情で誰何する。
その墓を訪れるのは、俺や父、ちえり叔母さんなど、ごく限られた人しかいないはずだ。
なのにこちらを向いたのは、見た事のない中年の女性とその母親らしき高齢の女性だ。
『……もしかしてあなたは、速水さゆりさん、あかりさんのお知り合いですか?』
悲愴な表情をした中年女性に尋ねられ、俺は本能的に自分に警告を出した。
――素直に答えるな。
『親戚です。失礼ですが、あなたは?』
尋ねると、中年女性は俺に向かって深く頭を下げた。
『速水さゆりさん、あかりさんを轢いてしまった|中山《なかやま》|茂《しげる》の娘です』
母と妹をひき殺した男の名前を聞かされ、ドクンッと胸が嫌な音を立てて鳴った。
『さゆりさんには息子さんがいると伺いましたが、今どちらにいらっしゃるか、ご存じですか?』
『…………遠方に引き取られました』
俺はとっさに嘘をついた。
息が震え、うまく呼吸ができない。だが目の前の二人に怪しまれないよう、必死に平常心を装った。
『顔も見たくないでしょうけれど、息子さんにお詫びをしたいのです。いつかお話する機会があったら、どうかお伝えください』
侘びなんて――。
俺が何か言いかけた時、中山の妻が涙を流し訴えた。
『夫は子供思いの善良な人なんです。息子が借金を作らなければ、あの人が篠宮怜香という女性の提案を呑んで犯罪を起こす事もなかったんです』
――――は?
『…………なん、……ですか? それは……。篠宮…………』
提案?
思考が完全にストップした俺の前で、老婦人は続ける。
『面会した時に夫が言ったんです。〝本当はブレーキの踏み間違えではなく、故意にさゆりさんと娘さんを撥ねた〟と。〝息子の借金を肩代わりしてもらう代わりに、篠宮怜香さんという人の頼みを聞いた〟……と。息子のためとはいえ、小さい子まで殺すなんて……っ』
そう言って、老婦人は泣き崩れた。
『…………頼まれた……とは? ……金は、幾ら積まれたんですか?』
俺の問いに、中年女性が気まずそうに答える。
『三千万円です。……私の兄が作った借金が一千万円。……残りは私たちが好きに使うように……との事でしたが……』
――あの女、金に困ってる老人に目を付けて、母とあかりを殺させたのか!
――たった三千万円で!
――母とあかりの命は、それっぽっちの価値だったのか!?
『…………っうあぁああああっ!!』
信じられない事実を知った俺は、とっさに持っていた仏花を地面に叩きつけた。
バシャッと音がし、母を思って買ったカーネーションが散る。
女性たちは俺の反応を見て、驚いて固まった。
『くそっ! くそがっ!! ああぁあああああぁあああぁああっ!!』
俺は彼女たちを無視し、何度も仏花を地面に叩きつけた。
そのあと荒くなった息を整え、涙を拭って考える。
――ちゃんと考えろ。
――絶望なら今まで何度も味わったはずだ。今さら動じるな。
――復讐を果たす相手は誰だ? そのために何をすべきだ?
冷静な俺が荒れ狂う自分に問いかけ、心の中で決意が固まっていく。
今までありとあらゆる事をされた。
自由な人生を歩めず、人をまともに愛せなくなっても『自分の存在が怜香を苦しめているのだから』と言い聞かせて耐え忍んできた。
母の代わりに自分が罰を受けているなど、考えた事はない。
だが自分は必要のない存在で、存在しているだけで人の迷惑になっているのだと、怜香に言われ続けてきた。
だから極力、誰にも迷惑を掛けないようにひっそりと生きてきたつもりだ。
怜香を見返したい気持ちはあったし、嫌悪し、顔も見たくないほど憎んでいる。
けれど心の底には『怜香だって可哀想な存在だ』という思いがあり、それで溜飲を下げていたところもあった。
でも――、あいつはしてはいけない事をした。
コメント
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悲しくて、アタシなら弾けないよ。。。(T^T)尊さん凄いよ。😭
尊さんは命日にはラクリモーサを弾いてたのね。弾いてるその背中を想像するとどこまでも続く深い悲しみが溢れ出てくる。 尊さん冷静になって考えよう。間違いなく確実にどうやって復讐するかを…怜香待ってろよ〜!