テラーノベル
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今日の朝は静かだった。
いつもならくるはずの暗号も 、
呼び出しもない。
ただ、窓から差し込む光だけが
「今日が始まった」と教えてくれる。
——いいや、 正しくは、
今日から何も始まらない。
私は、もう〈IRIS〉じゃない。
端末は処分した。
偽造身分も、連絡先も、全部。
名前を書けと言われたら、
私は一瞬手が止まるだろう。
「(……何を書けばいい?)」
リナでもない。
〈IRIS〉でもない。
——ミラ・ヴァイス…?
その名前を、
私は心の中で一度だけ呼んだ。
声に出すことはない。
この世界に、
その名前を知る人はいないから。
街を歩く。
人混みの中で、
私は“誰でもない人”になる。
それは ずっと私が望んでいた
自由だったはずなのに。
不思議と、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「(アーニャちゃん、ちゃんと
頑張れてるかな。)」
意味のない考え。
もう、考える必要はない。
それでもーー
パン屋の前を通り過ぎた時、
小さな声が聞こえた気がした。
「わくわく!」
——きっと気のせいだ。
私は止まることなく歩き出した。
夕方。
高台に立つと、 街が一望できた。
あの家も、 この街のどこかにある。
今日も フォージャー家には明るい灯りが
ついているだろう。
それでいい。
それが、 私の選んだ答えだから。
「(……先輩…)」
心の中でだけ そう呼ぶ。
彼はきっと、 全部理解している。
理解した上で、
何も言わない。
それが、
彼なりの敬意なのだろう。
夜風が吹く。
私は、空を見上げた。
名前を失っても、
役割を終えても、
空は変わらない。
「(私は、ちゃんと生きている。)」
それだけで 十分だった。
誰にも知られず、
誰にも呼ばれず。
それでも、
確かにここにいる。
——それが、
私の選んだ未来。
私は、 フォージャー家のある方角に
むかって背を向ける。
もう、振り返らない。
でも、忘れない。
名前のないまま、私はまた
静かに歩き出した。
「完璧な嘘の、隣で。」
ーfinー
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佐久良優華@低浮上
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