テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ディオール様が急な呼び出しを受け、凛々しい背中を見せて執務室へと向かわれた後。
私は一人、自室となる小さくも清潔なお部屋に戻っていた。
窓の外では、あの夜と同じような雨がしとしとと降り始めている。
けれど今の私には、遮る壁と屋根がある。
私は今日街でディオール様に選んでもらったばかりの柔らかな桃色のリボンを机に置き、指先でそっと撫でた。
絹の滑らかな感触が、現実味を帯びて指に伝わる。
「……夢じゃないんだよね」
独り言が、静かな部屋に溶けていった。
備え付けの鏡を覗き込むと、そこに映る自分は、今朝よりもほんの少しだけ顔色が良くなっている気がした。
絶望の淵にいた私を、彼がその光で照らしてくれたおかげだ。
ささやかな幸福を噛み締め、温かな心地に浸っていた、その時だった。
「──あら、随分とご機嫌ね。ゴミ溜めから拾われたネズミの分際で」
背筋が凍りつくような、低く冷徹な声が鼓膜を刺した。
弾かれたように振り返ると、部屋の入り口に一人の美しい女性が立っていた。
私と同じ紺色のメイド服を着ているけれど、その着こなしはどこまでも洗練されていて、隙がない。
整った顔立ちには隠しきれない棘があり、射抜くような視線で私を値踏みしていた。
「あ、あの……えっと、私は新しく雇っていただいた、ラヴィです。この前皆さんに挨拶をしたと思うのですが、あなたは……」
精一杯の挨拶を口にしようとしたが、緊張で声が震えてしまう。
「カレンよ。この屋敷で長く旦那様にお仕えしているの。……あのときは面倒くさくて席を外していたから話すのは初めてよね」
「は、はい、そうだったんですね。改めて、よろしくお願いしま───」
言いかけたところで、カレンさんの鋭い声に遮られた。
「それにしても、呆れた。旦那様の同情を誘って、そんなお高い服まで着せてもらうなんて」
カレンさんはゆっくりと、獲物を追い詰める蛇のような足取りで私に近づいてきた。
そして、机に置いてあった桃色のリボンを、汚いゴミでも見るかのように指先で弾いた。
「勘違いしないで?旦那様は慈悲深いお方だから、可哀想な野良犬に餌をあげただけ。あんたみたいな、マナーも知らない、家柄も定かじゃない小娘が、ここに居座れると思っているの?」
「い、いえ……そんなつもりは……」
「分かったら、気安く旦那様に触れないで。あんたの汚い指先が触れるだけで、あの御方の高貴な制服も名前も汚れるのよ」
彼女の言葉は、かつて実家で毎日浴びせられていた罵倒と全く同じ味がした。
せっかくディオール様の温もりで溶け始めていた心が、急速に、そして残酷に冷えていく。
私は反射的に、自分の醜い指先を隠すように袖の中で手を強く握りしめた。
彼女の言う通りだ、という卑屈な思いが頭を擡げる。
「明日からは、あんたが一番汚い仕事を受け持ちなさい。いい? 旦那様の前で余計なことを言ったら……どうなるか分かってるわね?」
カレンさんは私の肩を、骨に響くほどの力で強く突き飛ばすと、鼻で笑って部屋を出ていった。
静まり返った部屋に、一人取り残される。
さっきまであんなに綺麗に見えたリボンが、今は身分不相応な呪いのように感じられ、視界が滲んだ。
(……やっぱり、私みたいな人間が、こんな幸せを望んじゃいけなかったんだ)
翌日から、私の「メイド」としての生活が本格的に始まった。
けれど、それは昨日ディオール様が優しく語ってくれたものとは、大きくかけ離れていた。
カレンさんは、ディオール様が公務や訓練で不在にする時間を見計らったように、私に膨大な量の仕事を押し付けてきた。
暖炉から掻き出した灰の始末。
凍えるような真冬の冷水での雑巾がけ。
裏庭にある重い薪の運搬。
「旦那様には、私が指導していると言っておいたわ。新人はこれくらい当然でしょ?」
氷のように冷たい声でそう言われれば、何も言い返せない。
真っ赤に腫れ上がった手で重い桶を運び、必死に床を磨き続けた。
お昼時、空腹を抱えて使用人用の食堂へ行っても、私の分だけ食事が残っていないことが当たり前のように続いた。
「あら、もう無くなっちゃったわ。新人は最後って決まってるのよ」
カレンさんの後ろに控える取り巻きのメイドたちもクスクスと意地悪な笑い声を上げながら、汚らわしいものを見る目で私を避けていく。
お腹が空いて、手がかじかんで、疲労で頭がくらくらする。
それでも、ディオール様にだけは、この惨状を知られたくなかった。
せっかく死の淵から助けてくれた彼に「他のメイドとうまくやれません」なんて
これ以上情けない姿を見せて迷惑をかけるわけにはいかないから。
その夜───…
ようやく全ての雑用を終え、ふらつく足取りで廊下を歩いていると
執務室での仕事を終えたばかりのディオール様に遭遇した。
「ラヴィ?少し顔色が悪いようだけど……慣れない仕事で疲れたかい?」
ランプの灯りに照らされた彼の声は、あまりにも優しかった。
本当は今すぐ、その逞しい腕の中に飛び込んで「怖い、助けて」と泣き叫びたかった。
けれど、私は歪みそうになる唇を必死に抑え、精一杯の作り笑いを浮かべて、深くお辞儀をした。
「……いいえ、ディオール様。皆さんに親切に教えていただいて、とても充実しています。……お気遣い、ありがとうございます」
「そうか。……なら、いいんだが。無理だけはしないようにね」
彼は私の頑張りを労うように、大きな手を伸ばして頭を撫でようとしてくれた。
けれどその刹那、私の袖口から覗く
真っ赤にひび割れてあかぎれだらけになった手が彼の視界に入った。
「ラヴィ?それ…」
ディオールの表情が、微かに、けれど鋭く険しくなる。
私は咄嗟に袖を力いっぱい引っ張って、その証拠を隠してしまった。
「な、なんでもないです……!」
(大丈夫。これくらい、実家にいた頃に比べれば……全然、平気なんだから……)
自分にそう言い聞かせ、心に嘘をつく。
けれど、彼の前を辞して自室へ戻る私の体は
外で降り続く冷たい雨に打たれた床のように、芯まで冷え切っていた。