テラーノベル
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カレンさんの嫌がらせは、日に日に陰湿さを増していった。
私が磨いたはずの廊下に泥が撒かれていたり、洗濯したてのシーツに黒いインクが飛び散っていたり。
けれど私は、ディオール様にだけは知られないよう、必死に幸せなメイドを演じ続けていた。
彼に救われたこの命を、これ以上彼の重荷にしたくなかったから。
◆◇◆◇
そんなある日の夕暮れ───…
沈みゆく陽光が屋敷の廊下を赤く染める中、執務を終えたディオール様が、私を呼び止めた。
「ラヴィ、少し良いかな」
「はっはい……!えっと…何か失礼がありましたでしょうか」
咄嗟に背筋を伸ばし、努めて明るい声を出した。
けれど、ディオール様の碧眼は、射抜くような鋭さで私の手元に注がれている。
隠していたつもりだった。
けれど、連日の冷水での酷使に耐えきれず
私の指先は真っ赤に腫れ上がり、あかぎれが痛々しく裂けて血が滲んでいた。
彼は私の手首を、壊れ物を扱うような手つきでそっと掴み、その荒れた指先に触れた。
「……この手はどうした?専属メイドの仕事に、これほどの水仕事は含まれていないはずだけど」
心臓が跳ね上がる。
ディオール様の、聞いたこともないほどに鋭い声に反射的にビクッとして
嘘をつかなきゃ。彼を心配させてはいけないと頭を回転させる。
「え……あ、これは! その、私が不器用で、何度もやり直したせいで…ディオール様のご期待に応えたくて、つい張り切りすぎてしまったんです。本当です!」
私は顔を引きつらせながら笑い、拒絶するように強引に手を引き抜いた。
嘘をつくのは胸が締め付けられるほど苦しいけれど
彼に迷惑をかけることの方が、今の私には何倍も恐ろしかった。
「……ラヴィ。どうして───」
ディオール様は悲しげに眉を寄せ、何かを言いかけようとした。
けれど、そのときタイミング悪く従騎士が駆け寄り緊急の報告を告げる。
彼は苦渋に満ちた表情で、そのまま「夜には戻る」と言い残して屋敷を出て行ってしまった。
彼がいなくなったのを見計らったかのように、背後から冷ややかな足音が近づいてきた。
カレンさんだ。
彼女の纏う空気は、以前よりもずっと鋭く、殺気立っていた。
「……本当に、目障りな女ね」
振り返る間もなく、カレンさんは私の髪を乱暴に掴み、近くの空き部屋へと引きずり込んだ。
抵抗する間もなかった。
「また旦那様に色目を使っていたでしょう!あんたが、あのお方の心を乱しているのが分からないの!?卑しい泥棒猫が!」
「ち、違います…!私はただ、お役に立ちたくて……っ」
「黙りなさい!」
───乾いた音が、静かな部屋に響き渡った。
激しい衝撃とともに、私の視界がぐにゃりと歪む。
頬に焼けるような熱い痛みが走り、私はそのまま冷たい床に倒れ込んだ。
「痛い……っ」
「痛い?笑わせないで。旦那様をたぶらかしている罰よ。さっさと旦那様に自分から出ていくって言いなさいよ!!」
床に這いつくばる私の背中に、彼女の罵詈雑言が雨のように降り注ぐ。
私は逃げることもできず、ただ地面を見つめたまま震えていた。
実家で受けていた仕打ちがフラッシュバックし、呼吸が浅くなる。
「…返事くらいしなさいよ!このアバズレが!」
カレンさんが再び、憎しみを込めて手を振り上げた、その時だった。
───ガチャン、と重厚な扉が荒々しく開く音がした。
「……何をしているんだ」
低く、けれど驚くほど静かな声。
そこには、予定よりずっと早く戻ってきたディオール様が立っていた。
部屋の中の光景は、床に崩れ落ち、赤く腫れた頬を押さえて震える私と
腕を振り上げたまま石のように凍りついているカレンさん。
ディオール様の表情から、瞬時にして温度が消えていくのがわかった。
「だ、旦那様!? これは、その、新人の教育を……」
「……教育?」
ディオール様が、ゆっくりと一歩を踏み出す。
その足音が死神の足音のように響いた。
「僕の許可なく、新人メイドに手を上げ、床に這いつくばらせることが……君の言う『教育』か?」
「そ、それは…彼女があまりに不手際なもので……!」
「カレン、嘘は嫌いだ」
ディオール様は彼女の醜い言い訳を切り裂くように、静かに、けれど逃げ場のない響きでその名を呼んだ。
彼は放心状態のカレンさんを無視し
ゆっくりと私に歩み寄り、そばで膝をつくと、震えて止まらない私の肩を支えるように力強く抱き寄せた。
「……ラヴィ、…ひどいな、これは」
彼の指先が、赤く腫れ上がった私の頬に触れようとして、その痛みをおもんぱかるようにためらい、止まった。
私を見つめるその瞳の奥には、見たこともないような深い失望と、マグマのような静謐な怒りが渦巻いている。
「だ、旦那様、き、きき、聞いてください! 私は…この屋敷の秩序を守るために……っ」
「カレン。君に、何か言い分があるのなら後で聞こう」
ディオール様は立ち上がり、カレンさんをまっすぐに見据えた。
その眼差しは、戦場で敵軍を射抜く騎士の厳格さであり
同時にかつての信頼していた部下を憐れむ上司の悲しみでもあった。
「だが、たとえどんな理由があろうとも、僕の屋敷で暴力が振るわれ、一人の女性がこれほどまでに傷つけられることは許されない」
「君のしたことは……いかなる大義があっても、決して正当化されるものではない」
「…………っ」
カレンさんは、ディオール様の静かな言葉に圧倒されたように、膝からその場にへたり込んだ。
激昂されるよりもずっと重く、逃げ道のない決定的な拒絶。
「君のことは信頼していた。だからこそ、今の姿を見たくはなかった。……別室で待機していなさい。君の処遇については、ラヴィの手当てを終えた後に決めさせてもらう」
「……も、申し訳……ありません……」
涙を流しながら、震える声でカレンさんが部屋を去っていくまで、ディオール様はずっと私を抱きしめたままでいてくれた。
再び静寂が戻った部屋で、彼はもう一度、私の目線に合わせて屈み込む。
「……すまない、ラヴィ。気づくのが遅すぎた。……謝って許されることではないけれど、本当に、申し訳ない」
「ディオール、様……。私、私は、大丈夫ですから……」
私が涙を堪えて必死に強がろうとすると、彼は私の頭をそっと大きな胸に引き寄せ、包み込むように抱きしめてくれた。
「いいんだ。もう嘘はつかなくていい。君を大切にすると決めた僕の前で、どうかそんな顔をしないでほしい……僕がそうさせていたなら申し訳ない。今はただ、君の手当をさせてくれ」
彼の胸から伝わる、トクン、トクンという確かな、力強い鼓動。
私は彼の服をぎゅっと掴み、これまで誰にも言えず
ずっと奥底で堪えていた涙を、その温かな胸の中にすべてこぼした。
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