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幅の広い薄暗い廊下は全体的に陰気そのもので、時折灯されている松明(たいまつ)の炎も、薄い黄緑のぼうっとした光を不気味に放ち、まるで毒素でも拡散させているかのようであった。
進んで行く『聖女と愉快な仲間たち』の中に怯えや恐怖の顔を浮かべる者など、コユキ一人のみであった。
コユキは善悪から借して貰ったハンカチで口と鼻をしっかり押さえながら言う。
「不気味ねぇ、ほら、見て御覧なさいよぉあの炎の色ぉ、まるで塩化バリウムの炎色反応だわぁ、有毒よ有毒! あんたら良く普通に歩いていられるわね、馬鹿なの、ねえ馬鹿なの?」
「うるさいでござるな、さっきから言っているでござろ、念の為にラマシュトゥに『解毒(アポトキシン)』掛けて貰ってるから大丈夫だってば! んもう、小さい頃からでかい図体してるくせに怖がりなんだからぁ、でござるよ」
言うだけ言って返事は聞いていないのであろうコユキは、左右の壁に交互に掲げられている松明に近付く度に、反対の壁にピッタリと避けて進んで行くのであった。
そんなコユキの無駄な動きは一行から遅れ始めていた。
一人になると周囲の壁や天井、床から正体不明の視線が感じられ、体格と違って神経の細いコユキはビビり捲ってしまったらしく、先程迄煩く言い続けていた毒云々はどこへやら、回避の舞(アヴォイダンス)でスススススっと皆に追いついて来るのであった。
合流したコユキの視線の先には大きな黒い扉が見えていた。
アスタロトの恥の城の派手な扉とは対極をなす地味さである。
近付いてよく見てみると黒い扉の表面全体に同じく黒い文字が書いてあるが、周囲との違いは艶が無いだけであり甚だ(はなはだ)読み難かった。
「ほおぉ、なんて書いてあるのでござろうか?」
「ふむ、どれどれぇ?」
「ははは、コユキ、善悪、読めんよこれはっ! このヒエログリフ、神聖文字は恐らくヒッタイト文字だろう、我にも意味は分からんし読める者は当のバアル位だろうさ、頑張るだけ無駄だってば、ははは」
笑顔で言ったアスタロトに善悪が答える。
「違うでござるよアスタ、これはヒッタイトじゃなくてルウィ語のヒエログリフの方でござるよ」
「えぇっ? ルウィ? って何ぃ?」
驚くアスタロトに言葉を続けたのはコユキである。
「うん、その通りルウィだわね、なになに、『バアルを害そうとする者よ、其方(そなた)は害されるだろう』だってさ、何だろうね?」
「うん、そうでござるなぁ、こっちには『バアルを愛する者よ、其方は愛されるだろう』か…… なんでござろ?」
「お前たち、こんなの読めるのか…… 日本の教育レベルってすげぇんだなぁ…… だって失われた文字だぞ、これって! 読める奴いないって触れ込みなんだぞぉ?」
アスタロトの言葉に首を捻る二人。
「ふむ、そうだね、何で読めるんだろう? 分かる、善悪?」
「なんでって、読めるから読めるとしか…… ん? でもここだけはイミフでござるよ、ほらここの所、どう、読める? コユキ殿」
「あらら、本当だね! これは分かんないわね、丸っこい飾りが付いた棒、杖かな? そこにくるくる巻き付いた縄? かな? 読めないわねぇ」
善悪も大きな目を細めて細部までしっかりと見つめた後言うのであった。
「縄、かな? 上の端が少しだけ膨らんでいるし、先端に点があるのでござるよ…… 蛇とかなんじゃ無いのでござらぬかぁ?」
「その通り、それは恐れ多くも畏く(かしこく)も、偉大なる知恵の神にして我が星にある全ての生命を祝福される神、我が神たるバアル様が敬愛し敬慕してやまぬ御兄上神様、最後の創造神、光り輝く魔神王、ルキフェル様を現す文字でございます」
突然投げ掛けられた声のした方向に目を向けた一行の前には、ビッシとした執事服に身を包んだ涼やかな男型(おがた)の悪魔が、微笑みを湛えたまま怖じる事なく立っていたのであった。
執事コスの悪魔は扉に向かい丁寧に一礼した後、言葉を続けるのであった。
「つまり、この扉にはこの様に書かれているのです。 『偉大なる神バアル様を害そうとする愚かに過ぎる愚物(ぐぶつ)よ、貴様らは踏み潰されて己の愚を知る事になるであろう、立ち去るが良い、偉大なるバアル様に愛でて欲しいと望む敬虔(けいけん)たる者どもよ、祈りは既に届けられこれ以上うぬ等(ら)が得る物は無い、立ち去るが良い、そして、世界であり知性であるルキフェルを害そうとする邪悪の権化よ、扉を開くが良い、バアルによって最も残酷な滅びを神罰として与えてくれん、全ての命の頂点たるルキフェルを愛そうとする妄信に狂う者よ、扉を開くが良い、バアルによってその傲岸(ごうがん)に滅びを褒美として与えてくれん』とね…… さあ、どういたします、皆さま? ご選択はご自由にどうぞ……」