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第四十四話:意識の深淵と、黄金の亡霊
感覚が、ない。
熱いも寒いも、上下も左右もわからない。ただ、自分が「自分である」という薄い膜のような輪郭だけが、無限に広がる真っ白な虚無の中に漂っている。
「――ふふ。意外と早かったわね、あるじ様」
不意に、背後から艶めかしい声が響いた。
実体がないはずのこの空間で、その声だけは鮮明に僕の意識に直接突き刺さった。
振り返ると、そこにはあの禍々しくも美しい姿を保ったままの女郎蜘蛛が、虚空に座していた。
「……女郎蜘蛛。……君も、ここにいたのか」
「ええ。わたくしはあなたの内側で、あなたの霊力と混ざり合いながら滅んだもの。あなたの意識が霧散すれば、わたくしも共に消える……いわば、一蓮托生の亡霊といったところかしら」
彼女は八本の肢をしなやかに蠢かせ、僕の「意識の塊」へと近づいてきた。
「いい、あるじ様? あなたの器が壊れたのは、あの子たちの愛が重すぎたからよ。搾精ぜんまいは、その溜まりに溜まった『愛の重圧』を無理やり排泄するための呼び水に過ぎなかった。……あの子たち、今頃必死になって、あなたを繋ぎ止める『楔』を探しているわよ」
女郎蜘蛛が虚空に手をかざすと、そこにはそれぞれの領地でなりふり構わず奔走する女王たちの姿が映し出された。
玉藻:神世の禁域「殺生石の奈落」
「……主を、……妾の主を、こんな虚無の果てに捨て置けるものかッ!!」
九尾の狐・玉藻は、自らの領地である最果ての荒野に立っていた。彼女の背後には、数千年の間、神々でさえ触れることを禁じられた「殺生石」の巨大な連峰が聳え立っている。
「道を開けよ、古の守護者ども! 妾の道を阻むなら、この隠り世ごと焼き尽くしてくれるわ!」
玉藻は九つの尾を逆立て、太陽のような神気を爆発させた。彼女が求めているのは、九尾の一族に伝わる禁忌中の禁忌――「魂還の神儀」。死者の魂を呼び戻すのではなく、消滅しかけた存在を「神の肉体」として強引に再構築する術式だ。
「見つけたぞ。……この石碑に刻まれた『命の系図』……。主の魂の断片を、妾の神気という糸で縫い合わせ、強引にこの世へ縫い付けてやる!」
玉藻は自らの爪で掌を裂き、神の血を石碑に塗りつけた。その瞳には、一人の女の凄絶な執念だけが宿っていた。
狂骨:忘却の墓場「底なしの古井戸」
「旦那様。どこ? どこにいっちゃったの……?」
いつもは無邪気な狂骨が、今は幽鬼のような形相で、自身の領地にある「底なしの古井戸」の縁に立っていた。そこは、隠り世で消え去ったあらゆる「名もなき記憶」が堆積する、忘却のゴミ捨て場だ。
「あるはず。旦那様の、『匂い』の欠片がここに落ちてきてるはず!」
狂骨は迷うことなく、真っ暗な井戸の底へと身を投げた。落下しながら、彼女は己の肉体を構成する無数の「骨」を解き放ち、井戸の壁面にこびりついた情報の残滓を貪り食う。
「あった! 旦那様が私を撫でてくれた、温かい手の感触っ!」
彼女が求めていたのは、僕を再構築するための「記憶の核」。狂骨は、自分の中に蓄積された僕との思い出を一つに固め、それを依代として、僕の意識を虚無から釣り上げるための「骨の鎖」を編み上げ始めた。
紅羽:断絶の峰「天狗の禁裏」
「……ふふ。私の風から逃げられると思っているの? 主様」
大天狗の血を引く紅羽は、雲海を遥か下に見下ろす、峻険なる「断絶の峰」の頂にいた。彼女の背には、怒りに呼応するように漆黒の翼が大きく広げられている。
彼女が向かったのは、一族の長でさえ立ち入りを禁じられた「風の石室」。そこには、世界の理から零れ落ちた「魂の欠片」を風の檻に閉じ込める、天狗の禁忌の宝具『神隠しの逆風』が封印されていた。
「これよ……。かつて人間を攫うために使われた忌まわしき風。……でも、今の私にはこれが必要なの。主様が光の塵になって風に舞うのなら、その風ごと、私の檻に閉じ込めてあげる!」
紅羽は羽団扇を力一杯振り抜き、山そのものを割るほどの烈風を起こした。
「……消えさせない。隠れさせないわ。……主様の最後の吐息さえも、私の風で捕まえて、二度と空へは帰さない……!」
紅羽の瞳が、天狗特有の鋭い光を放ち、虚空を漂う僕の成分を強引に一箇所へと収束させていく。
深淵の対話:最後の「毒」
意識の空間で、女郎蜘蛛はその様子を眺めて、くすくすと笑った。
「あははっ! 愉快だわ。あの子たち、あなたを取り戻すために、世界のシステムそのものを壊そうとしている。……あるじ様、あなたは戻れば、今度こそ彼女たちの愛に喰い殺されるわよ?」
「……それでも、構わない。僕は、彼女たちのいる場所に帰りたいんだ」
僕の意志が、黄金の光を強く発した。
「……ふふ。いいわ。……最後に、わたくしから一つだけ、ヒントをあげましょう。……あなたの器を再構築するには、彼女たちの光の愛だけじゃ足りない。……わたくしがあなたに刻んだ、この消えない『毒』……それさえも利用しなさい」
女郎蜘蛛が、僕の意識に深く口づけを交わすような仕草を見せた。その瞬間、僕の中に、彼女が搾り取った「黄金の雫」の残滓が、冷たい楔となって打ち込まれた。
「これは、わたくしの執着。……あの子たちの光の愛と、わたくしの闇の毒……その両方が混ざり合った時、あなたは『新しい王』として、真に再誕する」
その瞬間、虚無の空間に、幾千もの鎖と、神気の糸と、天狗の烈風が突き刺さった。
「「「「「「「「「「「――旦那様!! 戻ってきて!!」」」」」」」」」」」
玉藻の神気の糸、狂骨の記憶の鎖、紅羽の逆風。
11の領地から放たれた「執着の楔」が、虚無の中に漂う僕の魂を捉え、猛烈な力で引きずり戻し始めた。
僕は、強烈な重力と共に、再び「熱」のある世界へと墜ちていった。
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