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ノアという名
まるで仮初めの皮膚のように記憶の空白に覆われた僕の上に与えられた。
僕は僕をよく知らなかった。
否、それは欺瞞だ。
僕は僕を忘れていたのだ。
自分が何者であるのか
名も、齢も、生まれた場所も
その日付すらも分厚い霧の中に閉ざされている。
まるで、何者かの手によって整然と養殖され
何の根源も持たぬままこの世に放たれたかのように、自我の淵にはただ虚ろな空間が広がっていた。
だが、物心ついた時、僕が息づいていたのは
古びてはいるが、柔らかな光と温かな匂いの満ちる孤児院の屋根の下だった。
記憶の全てを失った僕に、協会の大人たちは“ノア”と名を授け、惜しみない慈愛を注いでくれた。
朝はいつも、焼きたてのパンと淹れたての紅茶の香りが廊下いっぱいに広がり、子供たちの賑やかな声が響き渡る。
昼は庭で遊び、夕方には皆で食卓を囲み、温かいシチューを分け合った。
夜は読み聞かせの時間があり、絵本の世界に浸って眠りにつく。
そんな日々の営みは
僕の空っぽの心に、ゆっくりと
しかし確実に温かいものを灯していった。
初めて人に愛されたかのような、抗い難い感動が津波のように押し寄せ
どうしてか涙がとめどなく溢れ落ち、止める術もなかった。
そのあまりにも深い無償の優しさに、僕の胸は締め付けられた。
そんなある日、僕たちの世界では誰もが五歳の誕生日を境に、それぞれの異能力を発現させるということを院長から教えてもらった。
それは、ごく自然なこととして受け入れられていた。
そして、僕も例外ではなく
僕の内に秘められた奇妙な力が、静かにその輪郭を現し始めた。
それは、「相手の心を読む」という
比較的驚くべき能力だった。
最初は、遠くで囁かれる風の音のように漠然としていたそれが
次第に鮮明な思念の断片として、僕の意識へと流れ込むようになった。
他者の胸中に蠢く思念や、言葉にされない本音を
微かなざわめきのように僕の意識へと送り込む。
それは、ある時は甘美な囁きとなり、ある時は耳障りな不協和音となって
僕の精神を揺さぶった。
怒り、悲しみ、喜び、嫉妬…
あらゆる感情が、僕の脳内で混じり合い、時には頭痛を伴うほどの刺激を与えた。
最初は夢か現か、その境界でたじろいだが
やがて僕はその能力を前向きに受け入れることにした。
この力をもって、多くの人々を助けようと
密かに、しかし固く心に誓ったのだ。
困っている孤児院の仲間たちの心の声に耳を傾け、些細な手助けをして喜ばれる度に
僕の心は満たされていった。
だが、その力が時に
いや、しばしば厄介だと感じることもあった。
僕自身の意思とは無関係に、強い念や感情の波が四方八方から容赦なく押し寄せてくるのだ。
まるで、裸のまま嵐の中に放り出されたような感覚だった。
内向的で、決して人との交わりが得意とは言えない僕にも
孤児院の仲間たちは変わらぬ優しさで接してくれた。
彼らは僕の奇妙な沈黙や、時折見せる困惑の表情にも
何も尋ねることなく、ただ側にいてくれた。
そうして、日々の小さな充実が
僕の心を静かに、そして確かに満たしていった。
しかし、僕の心の中には、自身の過去という
深く、そして解き明かせぬ謎への強い渇望が
密かに、だが確固として芽生えていた。
無理もないことだった。
時折、何かが思い出されそうになるたびに
頭蓋の奥深くに鈍い衝撃が走り
鋭い頭痛が僕の思考を切り裂き、視界は二重に歪むような幻覚に苛まれ
その場に倒れ込むことも少なくなかった。
それはまるで、脳の深部に眠る記憶の断片が、無理やり表層へと引きずり出されようとする
暴力的な過程のようだった。
その都度、孤児院のスタッフや親しい友が
僕の体を支え、傍らに寄り添い、優しく声をかけてくれた。
「大丈夫か、ノア?無理するな」
と、彼らの心配そうな顔が、僕のぼやけた視界に映った。
それは僕自身の過去に関わる記憶なのではないか
そう直感しながらも、やはり明確に思い出すことは叶わない。
だが、ある日突然、運命の転機が訪れた。
それは、いつも通りの散歩の途中
町の公園の片隅で、偶然にも古びた手紙を見つけた時のことだった。
日差しが木々の葉の間から降り注ぎ、鳥のさえずりが響く穏やかな昼下がり。
風に揺れるベンチの足元に、それはひっそりと落ちていた。
風雨に晒され、何度も読み返されたであろうその紙片は
時間の重みを宿し、僅かに湿気を帯びていた。
触れると、ざらりとした紙の感触が指先に伝わる。
手紙は、震えるような、しかしどこか懐かしさを覚える筆跡で綴られていた。
【愛おしき娘アリーナ、今はノアという名前を貰って、孤児院で幸せに暮らしているようね
あなたをまた見ることが出来てママは嬉しいわ、あなたは分からなかったでしょうけど、この前すれ違ったのよ?
なんて、記憶が無いのにごめんなさいね、誰って感じだと思うけど、この手紙をアリーナ……
いいえ、ノアが読んでくれているのなら、お返事だけでも頂きたいの。いつまでも待っているわ】
そこには、以前住んでいたであろう場所や、氏名
そして僕が幼い頃に好んで食べていたものが細やかに記されていた。
それはまるで、生き別れになった娘へ、その母親が宛てた、切なる願いを込めた文面そのものだった。
しかし、この「アリーナ」という名には、微かな、だが確かに、聞き覚えがあった。
以前、孤児院の院長が、古びた新聞記事を見せてくれたことがあったのだ。
埃をかぶった新聞記事の切り抜きには、色褪せた写真と小さな文字が並んでいた。
その時、院長は「この綺麗な髪の色はこの街でもノアしか見たことがないんだ」と呟きながら
「アリーナ・アリス」と記された記事に、その指を滑らせていた。
その瞬間、僕の記憶の深淵に、微かな波紋が広がったような気がした。
今のところ、分かっているのは、手紙の差出人が僕の過去を知る人物であるということだけだった。
だが、深淵を覗き込むように、その意味を考えれば考えるほど、謎は深い沼のように広がるばかり。
自身の過去への手がかりを見つけた喜びと同時に
以前にも増して強い幻覚と、脳を蝕むような頭痛に襲われた。
視界が歪み、地面が揺らぎ、立っていられなくなる。
それでも、僕は歯を食いしばって耐え抜き
すぐさま孤児院へと戻った。
手紙に記された僅かな手がかりを頼りに
何としてでも過去を解明することを強く決意した。
そして、その決意を後押しするように
「人の心を読める」という僕の不思議な力が、まさにその真価を発揮し、僕の道標となった。
まず、手紙に綴られていた通り
返事を送り、文通を開始した。
返事はすぐに届き、僕の心は期待と不安で揺れ動いた。
やり取りを続けること、およそ一週間が経とうとしていた頃
漫然と文字を交わすことに限界を感じていた。
やはり、文字だけでは相手の真の姿を知ることは、不可能に等しい。
手紙の文面から読み取れる彼女の感情は
まるで濾過されたかのように薄く
僕の能力を以てしても、その奥底に潜む真意を探り当てることは困難だった。
そう悟った僕は、最後の返事として
「一度お会いしたいです」と記した手紙を、慣れ親しんだ伝書鳩に預けた。
「今日も、よろしくね」
白い手紙を咥えた鳩が
朝焼けに染まる空へと高く高く飛翔していくのを、僕はただ静かに見送った。
その白い影が、次第に点となり、やがて空に溶けて消えるまで。
鳩の小さな羽ばたきが、僕の心臓の鼓動と重なるようだった。
数日後。孤児院のみんなに余計な心配をかけまいと、僕は「散歩」という名目で
一人、外へと足を運んでいた。
もちろん、その真の目的は、手紙に書かれた僕の本当の名前
そして“ママ”と名乗る差出人との対面だった。
胸の奥底で、奇妙な期待と恐怖が入り混じっていた。
危機感が全くなかったと言えば、それは偽りになるだろう。
もし、目の前の相手が危険な人物だった場合、僕は思わぬ事件に巻き込まれる可能性を、頭の片隅で確かに考えていた。
しかし、それよりも何よりも、僕自身を苛む過去の疑問や
自分自身の根源を知りたいという
途方もない渇望が僕の理性を凌駕していたのだ。
胸に宿る
この説明しがたい空虚感を埋めるためならば
どんな危険も顧みないとさえ思っていた。
足取りは重いが、僕の心は前方へと駆り立てられていた。
「確か、地図を辿ると住所はここで合ってるはず……」
手垢のついた古びた地図を頼りに辿り着いたのは
まるで絵画から抜け出してきたかのような
威風堂々たる貴族の御屋敷だった。
黒々とした鉄製の門が、その存在感を際立たせ
その奥には手入れの行き届いた広大な庭園が広がっていた。
その重厚な佇まいは、僕の小さな体を圧倒する。
「手紙でも言ってたけど、本当に大きい……」
御屋敷は、深紅のレンガ造りの二階建ての建物で
鈍く光る瓦屋根の煙突からは、白い煙がもくもくと、まるで生きているかのように天へと昇っていた。
窓には、複雑な模様のステンドグラスが嵌め込まれ、その向こうにはぼんやりとした光が見える。
その情景は、以前孤児院のスタッフに貸してもらった推理小説『クラゲの孤』に出てくる
あの広大な屋敷と瓜二つだった。
僕は暫し、その荘厳な佇まいを、ただ呆然と見上げていた。
すると、その時、重厚な玄関扉が静かに、そして緩やかに開き、一人の女性が顔を覗かせた。
ワンカールされた栗色の髪は肩で優雅に揺れ
ルージュのように鮮やかな赤いマーメイドドレスが、その細身の肢体を包み込んでいた。
ドレスの裾は床に優雅に広がり、彼女の動きに合わせて微かに波打つ。
口元は、繊細なレースのスカーフのようなもので覆われ
その素顔を隠していたが、印象的な一重の瞳は
片方が琥珀色
もう片方が深く澄んだ青色というオッドアイだった。
完璧に整えられた眉は、その眼差しを一層際立たせ、眼だけでも人を魅了してしまいそうな
そんな得も言われぬ美しさを湛えていた。
僕は我に返り、慌てて会釈をした。
「あっ、えっと、家の前でごめんなさい!ノア、なんですけど……」
女性の双眸が、瞬時に僕の顔を捉えた。
その中に、期待と、そして微かな悲しみが混じり合っているように見えた。
その視線は、僕の心を深く見透かすかのように
僕から目が離せないでいる。
「アリーナ……アリーナなのね……?」
彼女の声は、微かに震えていた。
その震えは、喜びなのか、それとも深い感情の揺れ動きなのか、僕には判別できなかった。
僕は戸惑いながらも、今日ここに来た真の目的を告げた。
「そ、そうなのかは分からないけど……今日はそれを確かめるために来たんです」
女性は、はっとしたように息を呑み
そして自失したかのように呟いた。
その表情は、一瞬にして凍りついたように見えた。
「ぁ、ああ、そ、そうだったわね……ごめんなさい。つい取り乱してしまったわ。ささ、歩き疲れたでしょうし、すぐに紅茶を淹れるわね。どうぞ入って。」
彼女は僕を招き入れた。
重厚な扉が静かに後ろで閉まり、外界の光を遮断する。
玄関ホールは、蝋燭の切れかけの灯りすら届かぬ薄闇に包まれ、足元がおぼつかない。
大理石の床はひんやりと冷たく、ひっそりとした空気が漂っている。
「蝋燭が切れてしまっていて薄暗いのだけど、足元には気をつけてね」
女性の声が、闇の中に響く。
僕は緊張しながら、御屋敷の冷たい空気に包まれ
女性に案内されるがままに歩いていった。
どこからか、古びた木の匂いと、微かな埃の匂いがする。
やがて、彼女がよく使うという部屋へと足を踏み入れた。
その部屋は、一本の蝋燭の揺らめく明かりのみで照らされており
薄闇の中に微かな不安感が漂っていた。
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、壁に不気味な影を落としている。
女性は、そのままテーブルに向かい、繊細な手つきで紅茶を淹れ始めた。
銀色のティーポットが、蝋燭の光を反射して鈍く光る。
その所作は、まるで儀式のようだった。
「ノア君、お茶をどうぞ」
渡されたティーカップからは、甘すぎず、それでいて心を落ち着かせるカモミールの花の香りが
ほんのりと立ち上っていた。
湯気と共に、その優しい香りが僕の鼻腔をくすぐる。
それは、まさしく僕が好む飲み物だった。
たまに孤児院でも淹れてくれるスタッフがいたけれど、やはりこの人が僕の母親なのだろうか……
そんな思考が、頭の中を巡る。
すると、彼女は僕の心を見透かしたかのように
静かに、そしてどこか遠い声で呟いた。
「カモミール、好きだったものね……」
その言葉は、僕の心臓を直接掴まれたかのように感じさせた。
僕は遅れながらも
「そうみたい、ですね。あ、ありがとうございます」
と、話を合わせてお礼を言いながら慎重に紅茶を受け取った。
カップの温かさが、手のひらから僕の体の奥底に、不安の種を蒔くかのようだった。
その温かさが、むしろ不気味に思えた。
「では、少し話をしましょうか」
女性の言葉に、僕は緊張の糸を張り詰めながら
自身の過去や、手紙に込められた意味を尋ねた。
喉がからからに乾いていたが、再び紅茶を口にする気にはなれなかった。
「まずちゃんと自己紹介しておかなくちゃよね、私の名前はポワゾン・アリス……あなたの名前はアリーナ・アリス。と言っても、あなたは記憶が無いかもしれないけどね。」
彼女は、どこか遠い目をして
過去の幻影を追うかのように、そう言った。
その瞳の奥には、僕には計り知れない感情が渦巻いているように見えた。
「それなら……院長に、名前だけは教えてもらったことがあります」
僕はそう答えたが、この部屋全体に漂う重圧感と
感じ始めた得体の知れない不穏な気配に
ただ、話の続きを促すように、彼女を見つめた。
僕の全身の感覚が、危険を察知して警鐘を鳴らしていた。
「あら、そうだったの?とりあえず記憶が混乱してもあれだし、手始めに整理してみましょうか」
そう言って、女性はテーブルの引き出しから紙とペンを取り出した。
彼女の指先は、僅かに震えているように見えた。
その震えは、緊張からくるものか、それとも別の理由からなのか。
「まず、あなたの父親の名前はなんだったかしら?院長さんとかに聞いたこともない……?」
女性からの手紙にも、僕の「父親」
あるいは「元旦那」について知りたがっている様子は窺えた。
しかし、父親が誰であったかなど、記憶を持たぬ僕が知るはずもなく
彼女の問いに答える術もなく、僕はただ俯いた。
すると、女性は少し考えてから、再び口を開いた。
その声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「なんて、記憶が無いのだから答えにくかったわね。そうね……少し質問を変えるわ。」
「貴方のお父様がどんな人だったかは覚えてない……?些細なことでもいいの」
僕のお父様の特徴……
それもまた、僕の記憶にはほとんど残っていなかった。
思い出そうとすればするほど、鋭い頭痛が襲い
脳全体に濃い霧が立ち込めたように、記憶が鮮明になることはない。
僕は首を横に振って答えた。
「ごめんなさい……お父様のこともよく覚えていないんです、そんなこと院長さんに教えられたことも─────…」
言いかけた言葉を、静止したのは僕自身だった。
ゆっくりと記憶の糸を辿り直してみれば、孤児院に来て一ヶ月が過ぎた頃に
そんな話が院長から微かに語られた記憶が蘇ったのだ。
それは、僕の心の奥底に、無理やり押し込められていた断片が浮上するような感覚だった。
「そうなのね……でも無理もないわ。記憶があるにしろ無いにしろ貴方のお父様は、貴方が産まれて間もない頃に、遠征からの帰りに何者かによって刺殺されちゃって、ね……」
重々しく語る女性の言葉に、これまで欠けていたパズルのピースが
まるで不意に嵌まり込むかのような、奇妙な感覚を憶えた。
だが、同時に、深い違和感も覚えた。
その話は、僕が知る事実とは異なっていた。
僕の脳裏には、院長が見せてくれた新聞記事の文字が、まるで幻のように浮かび上がっていた。
おかしい。
院長が見せてくれた事件当時の新聞記事には
「××市在住、有名画家の36歳男性ルイード・アリスさんが昨晩、近くの教会で遺体となって発見されました」
としか書かれていなかったはずだ。
遠征からの帰りの出来事など、一切触れられていなかった。
そこには、ただ、冷たい事実だけが記されていた。
僕は釘を刺すように、恐る恐る問いかけた。
「あの事件って、教会で遺体が見つかったんですよね……?」
僕の問いに、女性は一瞬たじろいだように見えた。
その瞳には、一瞬の動揺が宿り、すぐに消えた。
しかし、僕は見逃さなかった。
そのわずかな変化を、僕の心を読む能力は確かに捉えていた。
「|あ、ああ、そうだったわね、記憶がこんがらがって他の事件と勘違いしたのかもしれないわ《やっぱ変なところで勘のいいガキね…はあ、気をつけなくちゃ》
困ったように笑う彼女の顔は、何かを必死にはぐらかしているようにも見えた。
本当に僕の母親であり、亡き夫の妻であったならば、ショックを未だに受け入れられない故の混乱なのだろうか……
ここに来て、真実が明らかになるどころか
更なる謎が、まるで深淵のように僕の前に広がり始めた。
それに、僕は以前、孤児院の院長と院長の奥さんが、ひそひそと話していたのを耳にしたことがあったのだ。
それは、僕が孤児院で過ごす日々の中で、何気なく耳にした会話だった。
「亡くなった画家の奥様は精神異常者だったという話も耐えないそうよ……?」
「定かではないだろうけど、そういえば……画家の事件が起きた一ヶ月後にも似たように、画商の青年が何者かによって刺殺されたということがあっただろう……?」
「その青年も、この孤児院に子供たちにたまに絵を見せに来てくれる子だったからね……立て続けにこんな……っ」
「悔しいけど、亡くなった人に当てはまる共通点が「絵」の仕事をしている人間……っていうのも気がかりよね……」
「こんな話はもうやめよう、子供たちに障る」
他の事件と間違えたというのは、ひょっとして、この画商の殺害事件のことなのだろうか。
この女性が、僕の父親、元いルイードさんのことをしきりに聞くのは
本当に僕の記憶を取り戻させるためなのか
それとも……他に、何か隠された理由があるとしたら……。
そう思った矢先、僕はあることに気づいた。
確か、ルイードさんが亡くなった日
教会のすぐ近くで、ルイードさんほどではないが
街で二番目に有名な画家の記念すべき初個展が開かれる予定だったはずだ。
これは院長が教えてくれたことだが、ルイードさんの事件の影響で個展は中止せざるを得なくなり
その画家は、ルイードさんの古い友人だったことから、精神を病んでスランプに陥ってしまったらしい。
そして次の事件の被害者である新人画家の青年は、野原で絵を描き、その日の帰路で背後から無残にも刺殺されてしまったという。
その日は、まるで地球が怒りを顕しているかのように
あるいは犯罪者に味方しているかのように
大粒の雨が絶え間なく、街全体を包み込むように降り続いていたという。
殺人には絶好の天気、なんて不吉なことすら、僕の頭をよぎるほどだった。
推理小説をこよなく愛する僕からすれば、この事件を院長から聞いて以来
一ヶ月刻みで絵に関わる人間が亡くなる事件が起きていること
そしてその殺され方、被害者同士の関係性に、何らかの隠された意味があるのではないかと
漠然とではあるが考えていた。
最初は、×××年9月1日
ルイードさんは教会で遺体として発見された。
その一ヶ月後、ルイードさんの友人だった画家
ヘルン・ポワードさんは精神を病んでスランプに陥り、自決した。
さらにそのまた一ヶ月後に、新人画家の青年が何者かによって刺殺され、命を落としたのだ。
これらが、まるで綿密に計画されたかのように、時を置いて連鎖している。
もしも、本当に、今目の前に座っているこの女性が、一連の事件の殺人犯だとしたら
今から僕のことを殺すつもりなのだろうか……。
まるで推理小説の主人公のような、およそ平凡な少年らしからぬ思考が、僕の脳裏を駆け巡った。
だが、僕は所詮、小説を読むのが好きなだけの、孤児院で過ごすごく平凡な少年に過ぎないのだ。
しかし、改めて過去の事件を仔細に考察してみれば
その殺され方が、三つの事件が起きる以前に
当時街の人々を震撼させるほどの傑作を世に送り出した作者
p.a.sさんの作品
『人生、復讐、経験。』に収められている
「第1章 十字架」
「第2章 画家の終焉」
「第3章 キャンパスと最期」
という物語と、驚くほど酷似していたのだ。
僕自身も何度も読み返したことがある、ただの架空の物語に過ぎない。
だから、ありえない
単なる一つの説に過ぎない。
しかし、その不気味な一致は、僕の心を蝕むように広がっていく。
背筋を冷たい汗が伝う。
そして、その時、今更ながらに
「第4章 毒殺」の本文が
ふと、僕の脳裏に鮮明に蘇った。
第4章の内容は、物語に迷い込んだ少年が
小説の中の魔女と文通を通して仲良くなり豪邸に招待され、淹れてもらった紅茶を飲み
薬殺されるという結末───…。
今の状況と、全く同じと言っても過言ではない。
その恐ろしい事実に気づくとともに
部屋全体に満ちる不穏な雰囲気と
目の前のティーカップに注がれた紅茶に、僕は思わずたじろいでしまった。
カモミールの甘い香りが、まるで毒の霧のように、僕の鼻腔を満たしていくようだった。
手のひらにじんわりと汗が滲む。
「あらあら、どうしたの……顔が真っ青よ……?」
僕の顔色を見て、心配そうに僕の頬に手を伸ばしてきた女性。
その手を、僕は反射的に掴み取った。
彼女の指先は、驚くほど冷たかった。
まるで死人の肌のような、ひんやりとした感触。
「あはは、つい緊張して、トイレを我慢してしまって……少し、お借りしてもいいですか?」
必死に平静を装い、僕はそう告げた。
声は、僅かに上ずっていたかもしれないが、なんとか声になった。
「やだも~早く言いなさいな、ほら、そこの突き当たり真っ直ぐ行ったらトイレだから、行ってらっしゃい」
女性は、呆れたような、しかし優しい声でそう言った。
その声の響きに、僕は一瞬、安堵を覚えた。
彼女の心を読むと、そこには微かな苛立ちと
僕を出し抜いたことへの満足感が混じり合っているように感じられた。
「すみません、ありがとうございますっ」
僕は心の中で安堵の息を漏らした。
……なんとか誤魔化せたようだ。
しかし、仮にあの小説の通りなら
次の展開はもう分かっている。
言われた通りに、重い扉を開けて
長い廊下を突き当たりまで真っ直ぐに進んでいくと、ようやくトイレがあった。
廊下は薄暗く、蝋燭の光も届かない。
足音が、静寂に吸い込まれていく。
その扉を閉め、鍵をかけると、「カチリ」と小さな音が響き、僕の胸から重い息が漏れ出した。
……一旦ここに籠って、状況を整理することにしよう。
トイレに入り、鍵を閉めて、室内を見渡すと、窓らしきガラスがあることに気づいた。
その窓は、僅かに開け放たれており、外からの冷たい空気が流れ込んできていた。
頬を撫でる冷たい風が、僕の思考を少しだけクリアにする。
「よかった、空いてる……!これならここから外に出ることも……!!……って、待てよ、ここもあの小説の展開と同じじゃないか……?」
僕の脳裏に、あの小説の次の展開が鮮明に蘇った。
ここからの展開は、確か……
窓から抜け出すのは最終手段に取っておくことにして、怪しまれないようにすぐに魔女の待っている部屋に戻るんだったはずだ。
そして席に着くと、座っていたはずの魔女が消えていて、テーブルの前で突っ立っていると
背後から魔女に声をかけられ、再び話の続きが始まって……。
僕は震えを覚えた。小説の筋書き通りに進んでいるこの状況は、あまりにも恐ろしすぎる
とりあえず、まだ直接的な危険性はない。
しかし、あの紅茶だけは、絶対に口にしないようにしなければ…
もしあの物語の通りに進むなら、本当にあの人は僕のお母様にあたる人なのか……?
物理的な殺人ではないにしても、昔の事件と今の状況が
あの小説の筋書き通りに進んでいるのならば、彼女は自ら書いた架空の物語を、現実世界で実行に移している人間ということになる。
その思考は、僕の心を深い混乱へと陥れた。
目の前の女性が、まさかそんなことをする人間だとは、信じたくなかった。
だが、いずれにしても、あの部屋に戻らないことには、何も始まらない。
僕は震える手足を、単なる武者震いだと言い聞かせ
震えを抑えつけながら、女性の待つ部屋へと、重い足取りで戻った。
一歩一歩が、鉛のように重い。
「今戻りましたっ!……ってあれ……ポワゾン、さん……?」
部屋に戻ると、予想通り、女性の姿はどこにも見当たらなかった。
静寂が、僕を包み込む。
蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れているだけだ。
「あれ、どこ行っちゃったんだろ……」
やはり、そうか。
だとしたら……もう一度トイレに逃げれば……
そんな考えが、僕の脳裏を駆け巡った。
しかし、それも彼女の予測通りなのだろうか。
次の瞬間、僕の背後から、ひんやりとした手が、僕の肩を掴んだ。
その冷たさに、僕は全身の血の気が引くのを感じた──
まるで冷水に浸されたようだ。
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まりそうになる。
「ふふ、下手な演技はやめたらどうかしら……?わかっているのよね?これがあたしの小説通りだと……」
耳元で囁かれたその言葉に、僕は心臓をトンと小突かれたような、底知れぬ恐怖を感じた────。
背筋が凍りつき、ひどく頼りない気分が
じーん、と音を立てるように胸に響き渡った。
この世の全てが、突如として裏返ってしまったかのようだった。
僕の思考は、恐怖によって麻痺しかけていた。
「な、なにを言って……っ」
僕は必死に笑って誤魔化そうとしたが
その時、この女性が何を考えているのか、無意識のうちに僕の心が探りを入れていたのだろう。
その心の声が、明確な言葉となって僕の意識に響いてきた。
それは、冷酷なまでに計画的で、僕の存在を弄ぶかのような意図に満ちていた。
「あと幾度繰り返せば貴方は、この謎を解けるんでしょうね……?」
女性の指が、僕の顔に触れ
その輪郭を慰撫するかのようにゆっくりと撫でる。
その感触は、優しさの中に、粘つくような不気味さを秘めていた。
そして、不気味な笑みを浮かべたまま
その顔を覗き込んできた。
その瞳は、深淵のようだった。
僕の心を完全に掌握しているかのような、冷徹な輝きを放っていた。
「まだ、分からない?貴方の記憶が無い理由」
その言葉が、僕の脳内で、まるで禁断の扉を開くかのように作用した。
頭の中に広がっていた白い靄が、音もなく溶け出し、その代わりに、漆黒の霧がとめどなく溢れ出す。
薄気味悪い部屋の闇が、いっそう深く、濃密になった気がした。
知りたいことが、問いたださなければならない真実が、山のように積まれている。
逃げなければならない状況なのに、段々と意識が朦朧とし始め、僕の体は重力に逆らえず
その場に、がくりと崩れ落ちた。
闇が、僕を飲み込んでいく。
意識が遠のく直前、彼女の口元が、わずかに笑みの形になったように見えた。
次に僕が気がついた時、目に映ったのは、見慣れた孤児院の天井だった。
柔らかいシーツの感触と、部屋に満ちる穏やかな匂い。
そこで、快く
全く記憶のない僕を出迎えてくれた院長が
優しい笑顔で僕に「ノア」という名前を付けてくれた。
この感覚、何処かで──────。