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神崎社長の過去が辛くて、でもそれが今の彼の優しさの根っこになってるのが胸に来ました……。マカロンの件でスマートウォッチが心拍数拾って飛び出してくる展開、設定の効かせ方が上手いなと。密室で弁当食べさせられてる場面、背徳感と幸福感が混ざってて甘すぎます。この物語、単なる過保護溺愛じゃなくて「過去の傷からくる執着」が根底にあるのが好きです。
翌朝。
ふかふかの高級ベッドの中で目を覚ました私は、信じられないほど体が軽く、視界が澄み渡っていることに驚いた。
遮光カーテンの隙間から差し込む朝の柔らかな陽光が、高い天井と白い壁を淡く照らしている。シーツから伝わるシルクの滑らかな肌触りと、微かに残るシトラスと白檀の香りが、ここが自宅の簡素なシングルベッドではなく、神崎のペントハウスの寝室であることを思い出させた。
「……嘘。熱が、完全に下がってる」
ゆっくりと上半身を起こしても目眩はしないし、昨日まで呼吸のたびに肺の奥を灼いていた痛みも綺麗さっぱり消え失せている。
昨夜、神崎が作ってくれたあの絶品の参鶏湯雑炊を食べた後、私は彼によって半ば強制的に布団へ押し込まれ、たっぷり十時間もの深い睡眠をとったのだ。消化に良い温かい栄養と、一切の仕事のノイズから遮断された十分な休息。ただそれだけのことが、ゼリー飲料とサプリメントだけで無理やり稼働していた私の身体に、魔法のような回復をもたらしていた。
「おはよう、白石。どうやら無事に人間らしい顔色に戻れたようだな」
ノックの音に続いて寝室のドアが開き、落ち着いたバリトンボイスが降ってくる。
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこにはすでに完璧なスリーピースのネイビースーツを着こなし、黒髪を一糸乱れず整えた神崎が立っていた。
昨夜、白シャツの袖を肘まで捲って雑炊を冷ましてくれた優しげな姿とは打って変わり、数千人の社員を率いる冷徹な若き経営者の威厳が全身から放たれている。
私は慌ててシーツを跳ね除け、ベッドの上で深々と頭を下げた。
「お、おはようございます、神崎社長……っ。昨夜は本当に申し訳ありませんでした! お仕事でご多忙な中、手料理や看病までしていただいて……」
神崎は静かな足取りでベッドサイドへ歩み寄ると、私の左手首をそっと取り、昨夜巻き付けた黒いスマートウォッチの画面をタップした。ひんやりとした彼の長い指先が脈拍を測るように手首の内側に触れ、私の胸が小さく跳ねる。
「体温三十六度四分。安静時心拍数六十八。睡眠スコア九十八点。……よし、合格点だ。君のマンションから着替えの服と化粧品は女性秘書に回収させて客間に置いてある。顔を洗って着替えてこい」
「あ、ありがとうございます……。あの、社長」
私はベッドから降りかけ、昨夜からずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を恐る恐る口にした。
「どうして社長は、あんなにプロ並みのお料理や、栄養管理がおできになるんですか? いつも分刻みのスケジュールでお仕事をされているのに……」
その問いかけに、神崎の足がピタリと止まった。
彼は大きなガラス窓の外に広がる朝の東京の摩天楼へ一度視線を向け、少しだけ自嘲するように口角を緩めた。朝の白い光に照らされたその端正な横顔には、普段決して社内では見せない人間らしい翳りが滲んでいた。
「……五年前、俺がこの会社の代表を引き継いで間もない頃の話だ」
神崎の低い声が、静かな寝室にゆっくりと落ちる。
「当時の俺は、今の君と全く同じだった。睡眠を削り、食事を無駄な時間だと切り捨て、カフェインと栄養剤だけで何日も働いていた。その結果、重要な契約の直前に執務室で倒れ、急性胃潰瘍と重度の栄養失調で一週間意識が戻らなかった」
「え……っ、社長が……?」
どんな逆境でも揺るがない無敵の魔王に見える彼に、そんな過去があったなんて思いもしなかった。息を呑んで見上げる私に、神崎は静かに言葉を継いだ。
「目が覚めた時、主治医にきつく言われたよ。『自分の肉体という資本すら守れない人間に、何万人の社員や大切な人を守ることなどできない』とな。……それからだ。俺が専属医と一流の料理人に師事して、臨床栄養学と調理技術を徹底的に叩き込んだのは」
神崎は再び私に向き直ると、私の頬に大きな手のひらをそっと添えた。
その掌は驚くほど温かく、まるで壊れやすい硝子細工を扱うような深い慈しみが込められていた。
「俺は二度と、自分の目の前で大切な人間が身を削って倒れる姿を見たくない。特に――俺の一番近くで支えてくれている君だけは、絶対に壊させない」
「社長……」
胸の奥が、熱い湯を注がれたようにじんわりと震えた。
彼が手料理を作り、強引なまでに私の健康を管理しようとしたのは、単なる業務効率化のためではなく、彼自身の痛切な過去の傷と、私を想う深い不器用な優しさからだったのだ。
「ほら、しんみりした話は終わりだ。着替えたらダイニングへ来い。朝のグリーンスムージーと、昼の弁当を用意してある。いいか、俺の許可なく外食や間食をすることは一切禁ずるからな」
いつもの威厳ある表情に戻った神崎に促され、私は熱くなった頬を両手で押さえながら洗面所へと向かった。
◆
午前九時三十分。神崎ホールディングス本社ビル、最上階。
専用エレベーターの扉が開き、神崎がフロアに足を踏み入れた瞬間、張り詰めた緊張感が空気を支配した。社員たちが一斉に立ち上がり、「おはようございます、社長!」と直立不動で頭を下げる。
「白石。十時からの役員会議の資料、九時四十五分までに俺のデスクに出せ」
「はい、承知いたしました」
私はいつも通りの「氷の秘書」の鉄仮面を被り、背筋を伸ばして彼の後に続いた。
会社での神崎は、公私を厳格に区別する冷徹なトップそのものだ。しかし、長袖のブラウスの袖口の下に隠されたスマートウォッチの確かな重みと、胃の奥に残るグリーンスムージーの爽やかな余韻だけが、昨夜からの出来事が夢ではないと私の身体に伝え続けていた。
昼休みが近づいた、午前十一時半のことだった。
午後の決裁書類を整理していた私のデスクの前で、不意に明るい声が響いた。
「白石さーん、ちょっといいかな?」
顔を上げると、営業部の若手エースである星野が人懐っこい笑顔で立っていた。爽やかな容姿で社内の女性社員から人気のある彼だが、私は業務連絡以外の会話をしたことはほとんどない。
「星野さん。何かご用でしょうか」
「昨日、白石さんが体調崩して休んだって聞いてさ。すごく心配してたんだよ。これ、駅前に新しくできたパティスリーのマカロン。たまには甘いものでも食べて息抜きしてよ」
星野はそう言いながら、私のデスクにリボンのついた小さな箱を置き、馴れ馴れしく身を乗り出してきた。
「それに……もしよかったら、今夜快気祝いってことで、二人で食事でも行かない?」
急に距離を詰められたことに驚き、私は反射的にキャスター付きの椅子を引いた。男性とプライベートで食事になど行ったことがない私は、どう断ろうかと戸惑い、動揺で心臓が早鐘を打つ。
(こ、困ったわ……。なんて断れば角が立たないかしら……)
「あ、あの、お気遣いはありがたいのですが、お食事は……」
断りの言葉を口にしようとした、まさにその瞬間だった。
左手首のスマートウォッチが、『ブブッ!』と短く強い振動を放った。
そのわずか数秒後、ガチャリと背後の社長室の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。
「――白石」
背筋が凍りつくほど低く冷ややかな声。
振り返ると、神崎が氷点下の眼差しで社長室の入り口に立っていた。その鋭い琥珀色の視線は、私のデスクに手をついている星野を真っ直ぐに射抜いている。
「営業部の星野だったな。勤務時間中に他部署の秘書の業務を妨害するとは、今月の君のチームの目標はすでに達成したと受け取っていいんだな?」
「ひっ……! い、いえ! ただの差し入れでして……失礼いたしますっ!!」
神崎の絶対的な威圧感に呑まれ、星野は顔を真っ青にして逃げるように去っていった。周囲の社員たちが「また魔王様の逆鱗に触れたぞ……」と息を潜めてキーボードを叩く音だけがフロアに戻る。
「白石。その箱を持って、今すぐ中に入れ」
「は、はい……!」
私は慌ててマカロンの箱を手に取り、社長室へと足を踏み入れた。
重厚なオーク材の扉が閉まり、防音完備の室内が完全な静寂に包まれる。神崎は無言で自分のスマートフォンを取り出し、その画面を私の目の前に提示した。
そこには、心電図のような赤い波形グラフと数字が鮮明に表示されていた。
「十一時三十二分。君の心拍数が、平常時の七十台から一気に百十二まで跳ね上がっている。……あの男と、何を話していた」
「えっ……? あ、あれは、急に食事に誘われて、どう断ろうか困ってしまって……」
「ほう。困っていた割には、随分と甘そうな箱を受け取っているじゃないか」
神崎は私の手からマカロンの箱をスッと取り上げると、デスクの脇へ無造作に置いた。
「これは後で秘書課の休憩室に回しておく。今朝言ったはずだ、病み上がりの君の胃腸に急激な白砂糖と脂質の摂取は毒だと。……それとも、俺以外の男から貰った菓子の方が魅力的か?」
静かに整えられた正論の奥に、隠しきれない黒い独占欲と嫉妬の色がドロリと滲んでいる。
神崎は私の細い手首を掴むと、社長室の奥にある彼専用の休憩室へと私を導き、内側からカチャリと鍵をかけた。
「そこに座れ。昼食の時間だ」
革張りのソファに座らされた私の目の前で、神崎はローテーブルの上に今朝の風呂敷包みを置き、丁寧な手つきで結び目を解いた。
中から現れたのは、美しい漆塗りの三段重だった。蓋を開けた瞬間、上品な一番出汁と醤油の香りが部屋中にふわりと広がる。
一段目には色鮮やかな季節野菜の炊き合わせと、ふっくら焼き上げられた鰆の西京焼き。二段目には美しい黄金色のだし巻き卵と、ほうれん草の胡麻和え。三段目には艶やかな雑穀米と自家製のちりめん山椒が隙間なく収められていた。
「す、すごい……! これを本当に、社長が今朝、私のために……?」
「君の午後の業務に必要なビタミンと良質なタンパク質を計算して作ってある。ほら、口を開けろ」
神崎は私のすぐ隣に腰を下ろすと、スーツ越しの太ももが触れ合うほどの至近距離で割り箸を割り、黄金色のだし巻き卵を一切れつまみ上げて私の口元へと差し出した。
「えっ……あ、あの、ここは会社ですし、自分で食べられますっ!」
「ダメだ。さっき他の男に声をかけられて無駄に心拍数を上げ、体力を消耗しただろう。これはそのペナルティだ。君は俺の隣で、俺が与えるものだけを大人しく咀嚼していればいい」
抗えない甘い眼差しに見つめられ、私は耳まで真っ赤に染めながら小さく口を開けた。
箸先からだし巻き卵を受け取った瞬間、ジュワッと溢れ出す極上の出汁の旨味とふわふわの卵の甘さに、私の胃袋も心も一瞬で溶かされていく。
「……美味いか? 感想を言え」
「はい……っ、お出汁が染みていて、すごく美味しいです……」
鰆の西京焼き、ほうれん草の胡麻和え、そして温かい雑穀米。神崎が楽しそうに一口ずつ私の唇へと運ぶたび、会社の密室で上司に餌付けされているという背徳感と幸福感で、頭の芯がクラクラと痺れていく。
その時、『ブブッ、ブブッ!』と左手首のスマートウォッチが、先ほどよりもずっと激しく連続して振動した。
神崎は私の左手首を掴んで引き寄せ、画面の数字を見て妖艶に口角を釣り上げた。
「心拍数、百二十五。……いい数値だ。さっきの男の時よりも、俺に食べさせられている今の方がずっと激しく乱れているな」
神崎は箸を置くと、私の顎先を指で掬い上げ、耳元へと唇を寄せて熱い吐息とともに低く囁いた。
「覚えておけ、琴音。君の胃袋を満たしていいのも、君の心臓をここまで激しく跳ねさせていいのも、世界中で俺だけだ」
耳朶をくすぐる甘い声とシトラスの香りに包まれ、私のスマートウォッチのアラートはいつまでも鳴り止まなかった。