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⒋
テニスコートに響く、パーンというボールを打つ音。
朝の空気はまだひんやりとしているのに、かなたの額にはすでに汗がにじんでいた。
「かなたー!そっちロブ上がったよ!」
「わかってるってばー!」
とても短くポニーテールに結んだ白髪が風にふわりと舞う。ラケットを振り上げる姿はどこか小動物のようで、それでいて、試合になると一気に表情が引き締まる。真剣な眼差しは、普段見せる笑顔とはまるで違っていて、見ているこっちが胸を掴まれる。
「……かっこつけすぎ、」
フェンスの外。グラウンド脇のベンチに腰を下ろしたトワは、持ってきた水筒を手にしながら小さくため息をついた。
( なんでわざわざこんな朝早くに応援に来てんだろ、トワ…… )
そう自分に問いかけても、答えはとっくに知っている。ただ、かなたを見ていたかった。それだけ。
振り上げられたラケットが風を切って、また小気味いい音が響く。細い腕なのに、意外と力がある。時々、踏ん張りが甘くてバランスを崩しかけるのはご愛敬だ。
でも、何より ───
( 泣いてた子とは思えないくらい、ちゃんと立ってる )
トワは、昨日の夜を思い出していた。あのとき抱きしめた、震える背中。ぐしゃぐしゃになった泣き顔。そして、朝になれば何事もなかったように元気を取り戻して、誰より一生懸命に前を向くこの子。
( ああもう、ほんと好きなんだけど )
心の中でだけ、強く呟いた。
本人に言えるはずもない。でも、応援くらいはしてもいいはずだ。
かなたはポイントを取って、仲間と軽くタッチを交わした後、ちらりとフェンスの外に目をやった。
そして、見つけた。トワの姿を。
その顔が、ふわっと嬉しそうにほころぶ。
「トーワー!見てた!?今の!!」
遠くから大きな声が飛んでくる。
周囲の部員たちも笑っていたが、トワだけはその声に胸を突かれて、思わず顔をそむけた。
「……ばーか、聞こえてるし。恥ずかしいわ」
小声でそう呟きながらも、口元は緩んでいた。
負けた。今日もまた、完全にペースを握られてる。
「はいはい、見てた見てた。ちゃんと真ん中打ててたね」
少し大きめの声で返すと、かなたは誇らしげにピースをしてから、またラリーの列に戻っていった。
その背中を見つめながら、トワはそっと頬杖をつく。
( ああ、ほんと好き……ほんと面倒くさい。好きすぎてしんどい )
でも、その想いを言葉にすれば、きっとこの関係は崩れてしまう。
だから、トワは今日もまた、少し離れた場所から静かに見守るしかできなかった。
練習が終わると、かなたはタオルを首にかけて、コートの外へふらふらと歩いてきた。頬はうっすら赤く、汗が髪にまとわりついていて、いつもより少しだけ幼く見える。
「トワぁ〜……つかれたぁ〜……」
そう言って、そのままトワの隣にバタッと腰を落とす。水筒を奪うように手に取り、ごくごくと勢いよく飲んだ。
「……なに勝手に飲んでんの」
「えへ、いいじゃん、トワのだし〜」
「意味わかんな!」
呆れたように返しながらも、トワは水筒を奪い返すことも、どかすこともなかった。かなたの肩が、自分の肩に小さく触れている。その距離が心地よくて、動く気にもならなかった。
「ねえ、僕どうだった?」
かなたが、上目遣いに尋ねてくる。その目にはまだ幼さが残っていて、それでいて真剣な期待もにじんでいる。
「……ちゃんと前より上手くなってた。サーブも安定してきたし、ラリーの持ちもよくなってる。……頑張ってるの、見てたよ」
「えっ、なにそれ……なんか真面目なトワ、珍しいかも」
「うっさい」
照れくささに思わず言葉が強くなって、トワは視線を逸らす。かなたが笑っているのが視界の端に見えて、さらに心臓がうるさくなる。
( ほんと、おまえってやつは…… )
「ありがとね、応援。……トワが来てくれると、やっぱ嬉しい」
さらりとそんなことを言って、かなたはタオルで額の汗を拭った。何気ないその仕草に、トワは息を飲む。
朝日を浴びて、汗に濡れた髪が光るその姿は、なんだかひどくまぶしくて。
「かなた……」
「ん?」
「…いや、なんでもない」
言いかけた想いを、トワはぐっと呑み込んだ。ここで言ってしまえば、きっとこの空気は壊れてしまう。今の**“ちょうどいい距離”**は、あまりに不安定で、繊細で。
「……ていうか、シャワー行きなよ。びしょびしょじゃん」
「えー、トワも一緒に入ってくれたら行くけど〜?」
「誰が入るか!」
バシンと軽く頭をはたいてから、トワは立ち上がった。
かなたはいたずらっぽく笑って、それを避けるように身をひねる。
「冗談冗談。でも、またトワとお風呂入りたいな〜」
「…は?」
「昔、入ってたじゃん。お風呂。小学校のとき」
「小学生の話を持ち出すな!」
「えへへっ、照れてる〜〜」
「うるっさい!早く行けってば!」
そう言いながらも、トワの胸の奥では何かが小さく暴れていた。
“あの頃”と違うのは、自分の想いが、もうごまかしきれないほど膨らんでいるということだ。
いつまでこの関係を続けていけるのか ───ふと、そんな不安が影を落とす。
けれど、かなたが笑っている限り、今はそれだけでよかった。
テニスコートを後にして、ふたりはいつものように並んで歩いていた。
「…ちゃんとシャワーしたの?」
「入った入った、ちゃんと。ほら、髪もちょっと湿ってるよ!」
「自分で言わなきゃ気づかないレベルじゃん」
「えー、ひどーい。トワ、さっきまで 汗に濡れた髪がまぶしい とか思ってたくせに」
「は!?な、なん…なんでわかんの!」
かなたがくすくす笑う。
トワは顔を真っ赤にしながら目を逸らした。思わず心の声が漏れてたのか、それともかなたが勘がいいのか ─── どちらにしても、手に負えない。
( …ほんと、油断も隙もない )
昼休み。教室の窓際、いつもの席。
トワはパンをかじりながら、ぼんやりと外の空を見ていた。隣では、かなたがストローでヨーグルトをちゅーちゅー吸っている。その音すらも気になるくらいには、神経がかなたに向いてしまっている自分が、もうどうしようもなく情けないと思った。
「ねえトワ」
「ん」
「昨日、僕さ……泣いてよかったのかな」
唐突な問いに、手が止まる。
かなたは、ストローを咥えたまま、視線を窓の外に向けていた。遠くを見てるふりをして、トワの横顔をちらりと見ているのがわかる。
「トワの前だから、泣けた気がする。……そういうの、ありがたいって思っていいのかなって」
「……思っていいよ、そんなの。当たり前でしょ」
言ったあと、少しだけ息を吐いてトワは続けた。
「むしろ、もっと泣いてくれていい。……トワにだけ、ね」
その最後の一言は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。だけど、かなたは確かにそれを聞いていた。
「……うん。じゃあ、ぼく……トワの前ではいっぱい泣くね?」
そう言って、かなたはいたずらっぽく笑った。
だけどその笑顔の裏には、少しだけ照れくささが混じっていて ───
トワの胸はまた、静かに熱を帯びていった。
( ……このまま、トワだけの場所でいてくれたら )
そんな想いを、願いを、そっと口の中で転がす。
まだ言葉にはしない。けれど、確かにそこにある感情は、もうごまかせないくらい、はっきりしていた。
︎︎︎︎