国境《くにざかい》にそびえる蓬莱山《ほうらいさん》の向こうには、馬にまたがり地を駆け回る遊牧の民が住んでいる――。
蕃国《ばんこく》と呼び、皆が蔑んでいる国があるのだと、翠蓮《すいれん》は、聞かされていた。
そして今、その国の王が貢ぎ物と共に使者を遣わしてきている。
「どうか、姫様を我らに」
大きな房がついた紅い縮絨《フラノ》地の帽子を頭にちょこんと乗せた、異国からの使者は、あろうことか、姫、翠蓮を所望した。
婚姻による同盟を望んでいるのだと誰の目にも明らかだった。
近ごろ、かの地では良質の綿が採れると評判になっていた。もちろん、綿よりも絹の方が価値はある。 ただ、日常使いに欠かせない綿は、幾らあっても邪魔にはならない。
近隣諸国は、険しい山を越え、かの地を自分のものにしようと動き始めた。
どうやらあちらの王は、自衛のため、山を挟んだこの国と手を結ぼうと決めたようだ。
何か起これども、この国が先へ行かせぬと言ってしまえば、諸国は足止めを食らう。
他の方角からの山越えは、道が険しすぎて馬はとうてい進めない。
仮に戦になった事を考え、姫を所望しているのだと王には分かっていた。
さて、いかがなものか。わが子を、未開の地に送りだすのは、いささか気が引ける。王の心は揺らいだ。
「ねぇ。私は、蕃国へ嫁がされるのかしら?」
表側でそのような騒ぎが起こっていると、好奇心旺盛な侍女達に聞かされた翠蓮の足は、地についていなかった。
あまりに急な話に、侍女達も、どう言葉をかけてよいのか困惑している。しかし、自分達が持ち込んだ話で、主人がふさぎこむのも居心地が悪い。
「そういえば、かの地では、毎日虹が観られるそうですわよ」
「王宮は、翡翠《ひすい》で飾られているとか」
「まあ、翡翠は、翠蓮様の守り石ではないですか。なんと幸先の良い話でしょう」
などと、歯の浮くような言葉を並べたて始めた。
「それは、ほんとうなの?」
曇っていた翠蓮の面持ちが、一瞬にして朝日のように輝く。
「私。このお話をお受けするわ」
この言葉は、すぐさま、使者と謁見中の王に伝えられる。
別に報告する事もなかろうが、侍女達が受け止めるには、重すぎたのかのだ。
こうして……。
話はとんとん拍子に進む。
ほどなくかの国より、婚礼の証しとして、翠蓮宛てに山ほどの貢ぎ物が届いた。
特に、一点の曇りも色むらもない、翡翠を使った睡蓮の置物が目を引いた。
置物は、花弁の一枚一枚が、今にもほころびそうな程、生き生きと彫られ、今にも花香が漂って来そうだった。
水面に浮かんでいてもおかしくない見事な出来栄えに、翠蓮は息を飲む。
翡翠は、彼女を守護している石だ。さらに、名前と同じ音をもつ睡蓮の花。何かしら、未来の夫の心遣いを感じた。
しかし、驚くのは早いと侍女に指し示されたものに、翠蓮は釘付けになった。
肖像画だ。
褐色の肌、りりしい眉、黒い瞳、すっと通った鼻筋――。
挙げればきりがない程、麗しい青年が描かれていた。
「……この方が」
花嫁を空の彼方で、心待ちにしているその人であると告げられて、翠蓮の心は踊った。
「まあ、見てください。なんと豪華な羽根扇子をお持ちなのでしょう」
「いえいえ、上着の縁の刺繍も見事ですわよ」
「あら、ご覧ください。黒真珠の指輪をお付けになられてますわ」
侍女達は、口々に値踏みし始めていた。
いつもなら、騒がしさに耐え兼ね、叱りつける翠蓮だったが、なぜか今日は、このかしましさも楽しく感じられる。
「それにしても、姫様がうらやましいですわ。このように麗しきお方の所へ嫁がれるのですから」
その一声を、翠蓮は待っていたのかもしれない。自分でも押さえ切れない思いが翠蓮の口を動かせる。
「私も、肖像画をお送りしなければ!」
そんな、蒸気した翠蓮の様子に、侍女達は微笑んだ。
「ああ、違う!」
翠蓮の挙げた声に絵師は震え上がった。
あれからすぐに、王宮お抱えの絵師が呼ばれ、翠蓮の肖像画が描かれていた。
「お願い。鼻をもっと高くして」
姫様である翠蓮の言いつけと、絵師はそそと筆を運び、所望に答えようとする。
「そうですわね、翠蓮様?首も少し長くされては?」
「あら、腰回りも、細くしませんと。飾り帯のせいで太く写っておりますわ」
侍女達が口をはさみ始めた。
絵師は、ちくいち頷いて、言われたままに筆を動かしていく。
「いいこと?あのお方には、美しい私をお見せするの」
翠蓮は、肖像画の若者に恋い焦がれていた。早く、嫁ぎたいとまで言い出して、父王を困らせていたのだった。
こうして、より美しく仕上がった翠蓮の肖像画が、花婿の元へ送られたのだ。
そして。
険しい山道を越える十日をかけた、翠蓮の花嫁行列は無事に終わった。
獣道のような危うい経路は恐ろしかった。しかし、一行の心細さは、美しい景色のお陰ですっかり消え去っている。
噂通り空には虹が。神殿造りの正殿には、ふんだんに翡翠の飾り物が使われていた。
決して、凝った造りではないが、蕃国と虐げるのはどうかと誰もが感じるほど、一国として恥ずかしくない体《てい》が備わっていたのだ。
さて、従者達がそのような事で感嘆しているなど、どこ吹く風で、翠蓮は、通されている広間の一点を凝視していた。
先にある玉座――。
その頭上には翠蓮の肖像画が掲げられていた。隣りには、見覚えのある若者の肖像画がある。
王のお出ましを知らせる銅鑼が鳴る。
(もうすぐ、玉座に、あの方が……。りりしいお姿が拝見できる。)
翠蓮は、無礼にあたらない程度に顔を上げ、王の姿を盗み見ようとした。
だが、コツコツと、力強い足音をたてながら現れたのは――。
一瞬にして、翠蓮の体から血の気が引いた。
いや、それは、花婿も同じのようで、ぽかんと、ほうけた顔をし、一言。
「そちは、誰だ?」
「……あなた様こそ」
玉座には、抜け落ちたような薄い眉に、糸のような細い目の、凡庸そうな中年の男がいた。
そして、花嫁としてかしずいているのは、まるで酒樽のように、ずんぐりとした年増女だった。
玉座の上では、あまりに違いすぎる二枚の肖像画が輝いていた。
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