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それからさんざん愛し合ってから眠りにつき、起きたのは昼過ぎだった。
互いに笑いながらルームサービスを頼み、セミスイートの部屋を1泊追加して、夜はホテルのレストランでディナーを食べた。
そして迎えた夜。
二人はまた愛し合った。
今度は呆れるほどゆっくり想いを確かめ合い、とろけるほど甘い夜を過ごした。
だから、
「私、そろそろ出るよ」
身支度を整えた峰岸が声をかけてくれるまで起きられなかった。
時刻は6時半。
ここは会社の最寄りのホテル。
まだ出社には間に合う。
――行くとすれば、だが。
「また連絡するね」
峰岸はそう言うと、2日前は照れて顔を真っ赤にしていたくせに、大胆にも自分から輝馬の唇にキスを落としてから去っていった。
(ヤバい……。これ、夢じゃないよな?)
輝馬は素肌の肩甲骨に触れるシーツの感触を心地よく感じながら、顔を両手で擦った。
「ーーーー」
峰岸の甘い匂いが消えると共に、現実が襲ってくる。
月曜日だ。
あのプレゼン会議から1週間が経過した。
今日はその結果が発表される日だ。
そしておそらくそれは、自分の庶務課行きをも決定する。
「………はあ」
輝馬はため息をついた。
そしてベッド脇に置いてあったスマートフォンを手繰り寄せると、着信音とアラームをオフにして、また眠りについた。
◆◆◆◆
音をオフにしていたのに―――。
なぜかその着信に起きた。
寝ぼけたままスマートフォンを手に取ると、そこには【市川晴子】と表示されていた。
頭の半分が覚醒しないままフリックする。
「もしもし……」
『あ、輝馬?』
朝っぱらだというのに、甲高い声が癇に触る。
輝馬は眉間に皺を寄せた。
『何よ、何回も電話したのに』
「ああ……悪い。週明けは仕事が忙しくて」
時計を見る。
9時40分。
「それよりどうしたの。あんまり時間ないんだけど」
もうじきチェックアウトの時間だ。
輝馬はベッドのきしむ音が入らないようにそっと身を起こしながら言った。
『あのね、聞いてよ。この間、フラワーアレンジメント教室にいったらね……』
その言葉に一瞬、あの男の顔が浮かぶ。
名前はなんて言ったっけ。
そうだ。城咲だ。
彼の顔と共に、この2日間、峰岸で頭も体もいっぱいで忘れていたあのサイトのことが脳裏を霞める。
『輝馬?聞いてる?』
「……ああ、聞いてるよ」
『よかった。それでね、いつも夫婦で参加している鴨井さんって人がいるんだけど、奥様の方が都合悪くて来れなかったのね』
「うん」
『そうしたら、奥さんがいないのをいいことに旦那さんの方がしつこくアプローチをかけてきて……!』
(ーーまた始まった)
母は美意識が高い。
が、それ以上に自意識も高い。
容姿端麗、スタイル抜群。
事実、若いころは相当モテたのだとは思う。
しかしそんな母も今は45歳だ。
加齢による肌や髪の劣化はあるし、体型だって崩れてきている。
それでもたまに男からアプローチをかけられると、女性として求められる自分に酔いしれ、愚痴という名の自慢をしに、息子に電話をかけてくるのだ。
(勘弁してくれよ。俺にアピールしてどうすんだか……)
輝馬はうんざりしながら立ち上がると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して蓋を開けた。
「俺に言ってもしょうがないでしょ。どうしても迷惑で困るなら、教室の運営に相談すれば?」
そこまで言ったところで、再度城咲の顔が脳裏を霞めた。
『そうねえ。でもまだ何か被害にあったわけではないし、それで変に角が立つのもねぇ……』
「ねえ、母さん」
『え?』
「その講師って……」
――もしかして城咲さんだったりする?
言いかけたところで輝馬は唇を閉じた。
そんなわけない。
もしそうだとしたら、会員のセクハラよりもまずそちらの話題が先に立つはずだ。
フラワーアレンジメントの先生が、お隣さんだった。
その一言が彼女の口から出るはずだ。
もし万一そうだとしても、
やめておこう。
自分の口から城咲の名前を出すことは。
妙に勘の鋭い彼女のことだ。
オブラートに包まれた微妙なニュアンスや、疚しさからくる僅かな息遣いの乱れに、何かを勘づくかもしれない。
「そういうのを注意とかしてくれないの?」
誤魔化した。さらに続ける。
「母さんは美人なのに少し無防備なところがあるからさ。気を付けないとダメだよ」
そう言うと、彼女は、
『………それ、昔から言われるのよね』
有頂天になって笑い出した。
『駄目ね、私はいつまでたっても』
すっかり自分に酔っている。
輝馬はうんざりしながらペットボトルの水を一口飲んだ。
「俺、そろそろ行かなきゃ」
『あ、ごめん、最後に一つだけ!』
慌てた母が声を高くする。
『あなたの高校の同級生で、峰岸さんって人いた?』
「え……」
さすがに言葉に詰まった。
『峰岸さんよ。女の子。いた?』
「…………」
何を言っているんだろう。
勘が鋭いどころじゃない。
「…………!」
輝馬はゆっくりと振り返った。
そこには昨日、一昨日と、2人が愛し合ったベッドがあるだけだった。
もちろん誰もない。
カメラなんかもあるわけはない。
じゃあ……まさか盗聴……?
輝馬は立ち上がると、ハンガーにかけてあったスーツのポケットをいじくった。
ない。
何もない。
『……輝馬?』
応えない輝馬に母が不満げな声を出す。
「ああ……峰岸って何人かいたような気がするから、パッとは思い出せないな」
なんとかそこまで言うと、
『峰岸優実って子よ。同じクラスだったと思うけど』
ガンと側頭部を殴られたような衝撃が走った。
ーーこの女。
ーーいや、このクソ女……。
(どこまで知ってる……?)
『今日ね、新しい人がサロンに入ったんだけど、その子と幼馴染みのお母さんが来てね。輝馬のことも知ってたのよ』
「……………」
全身の血液が流れ、体が熱くなった。
「へえ」
なんだ。
そう言うことか。
峰岸本人の母親だとかいうなら、偶然にしては出来すぎていると思うが、峰岸の友達の母親というなら、そこまで不自然な話ではない。
タイミングが良すぎるとは思うが。
『それでね、そのお母さんに聞いたんだけど、峰岸さん、専門学校に進んだらしいんだけど、実はストーカーに悩まされていたみたいなのよ』
「……ストーカー?」
そんな話はしていなかった。
『執拗に追い掛け回されて、ノイローゼみたいになっちゃって、それで学校も辞めちゃったんだって』
それじゃあ、その後に他の専門学校に入り直して保育士の資格を取得したのだろうか。
今はオンラインでの通信講座なんかもあるから、それで取得したのかもしれない。
『それでね……そのお母さんが言うには、娘さん、顔を真っ青にして言うんだって』
「え?」
『ある日を境に、峰岸さんと全く連絡が取れなくなったって』
「…………は」
輝馬は思わず笑った。
「何それ。怪談?」
『そうじゃなくて……。心配じゃないの?』
「……あのね、母さん。峰岸優実なら、俺たちのワイプスのグループに入ってるんだ」
『ワイプス?』
「そ。毎週金曜日、高校の元クラスメイト達でカメラ繋いでみんなで飲んでるんだけど、その中に峰岸もちゃんといるから。だから心配しなくても大丈夫だよ」
『……へえ。そうなの』
喜ぶべきことであるはずなのに、晴子はそう言ったきり、黙ってしまった。
(なんだ……?この沈黙……)
思わずスマートフォンを耳から離したところで、
『……それで?輝馬とその峰岸さんは、どういう関係?』
「…………」
輝馬は自分の言葉を脳内で再生した。
おかしいことなど一つも言っていないはずだ。
ましてや、峰岸と自分の関係を匂わせることなど――。
「どういうって……だから、元クラスメイトだよ」
『ーーそれだけ?』
やけに低い母の声が続く。
「うん」
突然、割れるほどの大声が受話口から聞こえてきた。
『どうして嘘なんてつくの!?母さんに正直に言えない関係なの!?』
「母さん……?」
『あなたがちゃんと話してくれるならお母さんは何も責めたりしないのよ!?』
「母さんてば。落ち着いて」
輝馬はスマートフォンを震える右手から左手に持ち替えた。
「俺、一つも嘘なんか言ってないよ」
そうだ。
嘘はついていない。
「全部本当のことを言ってるのに、どうして怒るの」
そう言うと、彼女は受話口で黙り込んでしまった。
『……そうよね。ごめん。お母さんがどうかしてたわ』
彼女はそう言うと、長いため息をついた。
「…………」
通話口に音が入らないように輝馬は息を飲んだ。
『今週、予定がないなら帰って来なさいよ。何か美味しいもの作るから』
晴子はいつものトーンに戻ってそう言った。
「うーん。そうしたいけど、ちょっとどうかな。仕事の方が忙しいから」
輝馬はホッとしたと同時になぜか異様に痒くなった額を掻いた。
『わかった。お仕事、無理しないでね』
「うん。ありがと。じゃ」
電話は、輝馬から切った。
そうじゃないと晴子は輝馬が切るのをずっと息をひそめて待っていそうで、怖くてたまらなかった。
「…………」
再度自分の言葉を振り返る。
嘘は言っていない。
それなのにどうして彼女は、輝馬の言うことを嘘だと決めつけたのだろうか。
そのときベッドの枕元にある電話が鳴った。
慌てて時計を見上げる。10時05分。チェックアウトの時間を過ぎている。
「……やば!」
輝馬はスーツを拾い集めると、慌てて腕を通した。
◆◆◆◆
金を払い、ホテルをチェックアウトしたところで、スマートフォンを手にした。
「……うわ」
母の着信で気づかなかったが、その前に会社からの着信が7件もきている。
「……………」
輝馬は顔を上げた。
ホテルの前を流れる車の列を見つめた。
その喧騒の向こう側に、YMDホールディングスの白い外壁が見える。
自分はーーー。
峰岸とこんな夢みたいな時間を過ごした後に、
やっと高校時代からの恋を成熟させた最高の朝に、
あいつらから不要通告を受けたくない。
華の企画部から、パートの庶務課へ異動する手続きを踏みたくないし、
荷物の入った段ボール箱を抱えて、増築部分の新舎から、壊さずに残した旧舎まで歩いていきたくない。
「……………」
企画部だから試験を受けたのだ。
正社員だから入社したのだ。
そのどちらもぶん盗られるくらいならーー
「……こっちから願い下げだ!」
輝馬は踵を返すと、会社に背を向けて歩き出した。
駅に向かう人々の群れに混ざると、ざわざわとしていた気持ちが収まっていく。
電車のホームの行き交う人の柔軟剤と香水と体臭が混ざったような匂いを嗅ぐと、心が落ち着いてきた。
(……俺は俺の方法で、俺の道を生きていく)
輝馬はポケットからスマートフォンを取り出すと、YMDホールディングスの電話番号をブロックした。
視線を上げると、ちょうどホームに電車が入ってきた。
(……さあ電車よ。俺を連れて行け。峰岸との未来へ……!)
プシューという音と共に、扉が左右に開く。
輝馬は背筋を伸ばし口元を引き締めると、その電車に颯爽と乗り込んでいった。